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侍の本懐

 白装束の男は短刀を目の前に座っている二人の男に見せながら口を開いた。

「これぞ侍の本懐よ。余は一人の侍として潔く果てよう。この太平の世にかなわぬ夢と思うていた事がこうして成し遂げられるのじゃ。そなたら、余を悲しんでくれるな。余は侍として最期を遂げられて本望なのじゃ」

 この白装束の男の言葉を聞いて中年の男は泣きだした。

「ああ、なんとお労しい!殿、今も家来であったなら私もお供したかったのに!」

「そのような事言うでない。殉死などしたらそなたの家もお家断絶になるぞ。そこの凛々しきお主の息子も侍ではいられなくなるのだぞ?」

 中年の男は涙にぬれた目で我が息子を見た。かつての主君の言う通り立派意に育った息子である。よく出来た息子で御家人の自分にはもったいない息子であった。いずれどこかの旗本の養子にでも、そう今対面しているかつての主君の養子にと考えていた。なのになぜこの主君に切腹が申しつけられたのか。

 凛々しき息子は無言でジッと父のかつての主君を見た。白装束の男はこの少年とも青年ともつかぬ若者が自分を見つめているのを見て問うた。

「そなた、どうしてそのように余を見るのか。この白装束に興味があるのか?」

 この問いに若者はその澄んだ目を見開かせて答えた。

「いえ、拙者は殿の堂々たる態度に感服したのです。拙者は今まで侍もただの人。切腹を前にしたら恐れて震えあがるだろうと思っていました。しかし殿さまは切腹を前にしてかくも平然としておられる。拙者は殿さまのお姿を見て自分の考えの浅ましさに気づき反省しました。殿、見事本懐を成し遂げられるようお祈りしています」

「うむ、そなたの言う通り見事成し遂げて見せようぞ。今の太平の世にここにありと言わしめるぐらいの堂々たる切腹を見せようぞ」


 間もなくして御家人親子は旗本の家から退出した。親子は無言であった。父は隣で神妙な顔をして歩く息子を見てお上から切腹の沙汰を申しつけられた旗本から彼が何を感じたのか考えた。きっとこの子も白装束の殿の姿を見て侍とは何かを知っただろう。侍とはいざとなれば死をためらわないほど強いものだ。きっと息子はどこかの旗物の養子となるだろう。もしかしたら幕府の要職に就くこともあるかもしれない。その彼の人生の中で今日の経験はまたとないことになるだろう。殿は息子に侍とは何たるかを見せてくれたのだ。その時息子が突然足を止めて父の方を向いた。

「ところで父上。殿さまについて聞きたいことがあるのですが……」

 父は息子の言葉を聞いて前のめりになった。

「なんぞ?話してみよ」

「あの、殿さまはどうして切腹を申しつけられたのですか?」

「いや、全く聞いていない。多分殿の出世をねたむ誰かに謀反の疑いを賭けられたのだろう。それでも誰も妬まず丸ごと受け入れられるのだ。なんと立派な殿さまじゃ」

「確かにそうですね。私にはとても真似は出来ない」

「お主はまだ若い。しかしそのうち武士として成長すれば切腹へのためらい等消えるだろう。あの殿のように」

 と父が言ったところでどこからか「御用だ御用だ」の声が鳴り響いた。それと同時に岡っ引きたちがわんさか現れた。父と息子は隅にのけてこれを見守っていたが、その二人の目の前で岡っ引きたちが口々にこう叫んだ。

「あのでっかい屋敷が大奥の覗き犯の旗本がいるところだ。全く飛んでもねえ野郎だぜ。あの侍。毎夜覗くどころか、便所のウンコまで持ち出して。全くとんでもねえスケコマシだ!ほっとくと切腹するから早くと捕えろ!あんな奴に切腹なんかさせるな!とっ捕まえて、フルチンの上、市中引き回しで獄門で、さらし首だ!」

 しばらくすると旗本の屋敷から白装束でピーピー泣いている男が現れた。親子は男を見て素早く逃げようとしたが、しかし白装束の男は二人を見止めて助けを求めた。

「ああ~ん!やっぱり切腹できなかったよぉ~!いざってなったら刃物怖くて泣いちゃったよぉ~!助けてよぉ~!今こそ主君のために命を投げ出す時だろう!」

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