宗教二世に必要な心のケアと社会の溝

昨日のカウンセリングの記事をTwitterでシェアしたところ、同じような違和感を感じたというリプをいくつかいただいたので、今日はそのことについて書いてみたいと思う。

二世(もしくは三世)が精神科を受診した際や、カウンセリングを受けた際に「宗教の話をしているのにスルーされる」ということがままある。
これは宗教二世の問題が世に広く知られていないせいもあるのだが、多くの場合一般的な毒親の問題として話が進むのである。

これが二世と世間との大きな溝として横たわっているように思う。

たとえば、アルコール依存性の親が普段は優しいのに、お酒を飲んだ時だけ暴力をふるうことと、宗教を信仰している親が普段は優しいのに、教義に反した時だけ体罰を加えることは、世間一般からすれば同じような問題かもしれない。

しかし、二世の視点から見るとこの2つはまったく違う問題である。
(決して毒親が単純な問題であると言いたい訳では無いので、そこは誤解しないでいただきたい)

前者は酒に酔っているという理由があったとしても、暴力をふるうことは親の意思や感情によるものであるが、後者の場合はそれが第三者(しかも親戚や継父母ですらない、家庭というコミュニティの外側)の意思によるものだからである。
ましてや第三者というのが同じ人間ではなく「神」なのだから余計に話はややこしい。

宗教二世にもいろいろな人がいるので一概には言えないのだが、私自身を例に出すのなら、そもそも信仰は親に強制されたものであり、最初から神を信じていた訳では無いので、私の認識としては「親が存在しない何かが存在すると頑なに主張し、その何かの命令で私を虐待した」となる訳だ。

よくトラウマを解消する方法として提案される方法の一つに「許す」というものがある。

これは実際には「親を許す」ということではないのだが、その部分の説明は長くなるのでまた別の機会に触れたい。
ただ、体感としてこの意味を勘違いしている方は非常に多い。

宗教二世の中で「親にも事情があるのよ。いつまでも過去にこだわってないで、そろそろ親を許してあげたら?」というニュアンスの言葉を誰かからかけられたことのある人も多いのではないだろうか?

実際に私はこれまで数え切れないほどこの言葉を投げかけられてきた。

しかし、これを読んでいる宗教二世以外の方は今一度ご自身に置き換えて考えて欲しい。

たしかに親の弱さゆえに宗教に縋った部分はあるかもしれないが、あなたは「存在しない何かが存在すると頑なに主張し、その何かの命令で長期にわたって自分を虐待した」人を、そもそもその人をそうさせた「何か」を許せるだろうか?

体罰だけではない。
宗派によって教義は違うが、家庭が貧困に陥るほどの高額な献金、一般的な学校行事や特定の授業に参加することの禁止、誕生日やクリスマスなどのお祝い事の禁止、他宗派の冠婚葬祭への出席の禁止、高等教育や定職に就くことの禁止、信者以外の恋愛、結婚の禁止などの人権侵害がすべてその理由のもとに強制されてきたのだ。

前回の記事で書いた、カウンセリング時に感じた否定的なニュアンスはこの部分だった。
「親も一人の人間だから仕方ないところはある。
許してあげましょう」というようなことを言われたのだが、そもそもが親の個人的な意思や感情による虐待ではなく、それが教義に基づいて行われているため、ここに強烈な違和感が生まれるのである。

親の弱さでは納得もできないし、もし仮に親を許せたとしてもそこが問題の根幹では無いため、心が晴れることもないのだ。

宗教二世は親への怒りはもちろんのこと、まず第一に親を虐待に走らせ、家庭を壊した教団への怒りを抱えている。
それとは別に親への愛情も同時に残っていたり、助けてくれなかった周囲や社会への怒りを抱えていたり、様々な気持ちが絡み合って、自分でもどうすれば分からなくなって苦しんでいるケースも多い。

二世の支援や精神医療に携わっている方がこれを読んでくださっているのなら、家庭の問題、毒親の問題と矮小化せず、必ず宗教の問題を前提としたケアをしていただけないだろうか。
これは二世に関わるすべての人たちにも是非お願いしたいことである。
辛さの原因は親との関係によるものだけではないのだから。

もちろん、そもそも各教団ごとに教義が異なるため膨大な宗教知識が必要であったり、クリアしなければいけない課題は沢山あると思うのだが、そうでもしなければ宗教二世の心が本当の意味で救われることはないように思う。

最後に、これは私の経験をもとにした個人的な見解であり、すべての二世がこれに当てはまるものではなく、一人一人に寄り添ったケアが一番重要であることは言うまでもないが、私のケースも頭の片隅にでも留めていただければ幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?