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札幌は人々がフレンドリー

サッポロビール博物館へ行く。北海道のあちこちで見かける星のマーク、なぜ星なんだろうと不思議に思っていたら開拓使のマークだった。「アイヌから見れば侵略者のシンボルなのかもね」という幼馴染の一言が印象に残る。

日本のビールの祖は中川清兵衛。政府から海外渡航が禁止されている中、1865年に17歳で単身イギリスに渡り、そこからドイツに辿り着き、ビール作りを学ぶ。修行ののち30歳くらいで日本に帰国する頃、日本は明治維新を迎えており、ビール作りを主導する人として重宝されたよう。

国を出た時は罪人だったのに、その十数年後には価値観がガラリと変わり、事業を牽引する人として出迎えられたわけで、社会が決めた良し悪しのなんと不確実なこと。

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醸造所の建設や事業責任者を担った村橋久成は、薩摩藩出身。鹿児島の資料館で見た見たギリス留学生のうちの一人で、鹿児島で見たのと同じ写真が提示されていた。全然違う場所で同じ写真を見るのは、知り合いと思わぬことで遭遇するようなうれしさがある。

初期のサッポロビールは札幌麦酒株式会社。1905年に恵比寿ビールと朝日ビールと合併して大日本麦酒株式会社となり、戦時下で商標が消え、ビールが全て同じ「麦酒」のラベルになった時代を経て、サッポロビールの前身である日本麦酒株式会社と現アサヒビールの朝日麦酒株式会社へと分かれる。

そうしてサッポロビールとエビスビールの2大ブランドを抱える現在のサッポロビールが誕生したらしい。

サッポロビールがエビスを出している理由を知ることができて、さらにはかつてアサヒとサッポロは同じ会社だったこともわかり、大満足。

北海道での新事業としてビール醸造を検討する中野生のホップが見つかり「最適な土地!」となったり、大日本麦酒になる過程にはビールメーカーの合併を牽引した人がいたり、日本麦酒時代にサッポロビールの名を惜しむ声があったことからサッポロビールに社名を変更したり、北海道のビールの歴史はドラマチック。

地下街で着物をリメイクして販売しているコーナーがあり、立ち寄る。おばあさまは商売上手で、幼馴染は2着買った。わたしは別のおばあさまから「着てみなさいよ!」とお声がけいただき、「すてき〜!」とお褒めいただき、売上の一部は台湾に寄付するというのがダメ押しとなり、全く買う気はなかったのにうっかり買ってしまった。

今夜は幼馴染のご両親のコンサート。その前に幼馴染の兄が合流し、3人で軽くビールを飲む。幼馴染の兄はほぼ初めまして。歳が離れていることもあり「怖いお兄ちゃん」のイメージで止まっていたが、全然怖くなかった。そりゃそうだ。

幼馴染の家からエアガンを撃つと、わたしの実家のマンションまで玉が届くという話が一番面白かった。エアガンの性能と、お互いの家の近さと、かつて幼馴染兄がそんなことをしていたのかという驚き。

ビールを飲んだお店の店員さんはコミュニケーションの取り方と距離感の測り方が上手で、嫌な感じが一切なく気さくな対応をしてくれた。なぞにフランス語も理解していた。札幌の人はどうも人との距離が近く、話をするハードルが低い。

おやつ

ご両親のコンサートを聴きながらドラクエを思い出す。わたしにとって「クラシック音楽=ドラクエ」になってしまっている。行く先々で折に触れてドラクエを連想しているわけで、改めて人格形成に相当な影響を受けている。

コンサート後のお食事にもお邪魔する。ご両親のお知り合いと思われる方はやはり気さくで、幼馴染と兄にたくさん話しかけていた。札幌の皆さんの見知らぬ人に対するハードルの低さと社交性、他地域に類を見ないような気がする。かなりすごい。

中学生の頃、幼馴染のご両親と幼馴染と北海道旅行に行った。晴天率の低い摩周湖が晴れていて、「晴れの摩周湖を見ると結婚できないって話をしたよね」と幼馴染パパから言われて思い出す。幼馴染は結婚し、わたしは未婚だが結婚する気がないので、ジンクスははずれ。

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