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ミネアポリス~軍情報部語学学校(MISLS)の歴史

「ミネアポリスならMISがありますよ」

3月、別件でミネアポリスを訪れる機会があり、ふと、全米日系人博物館のMさんに、ミネアポリスで見るべき日系人ゆかりの場所はあるか聞いてみた。すると、「ミネアポリスなら、MISがありますよ」との回答があった。

MIS?何の略だろう?すぐに調べてみた。

MISとはMilitary Intelligence Service(軍情報部)のことで、その語学学校であるMISLS(Military Intelligence Service Language School)がミネアポリスにあったという。

さらに調べてみると、Fort Snellingという場所が見つかった。正確にはミネアポリスではなく、そのすぐ隣のセントポールに位置していた。1820年代から軍事施設として使用されていたが、現在は国定の歴史博物館になっている。

ここに、1944年から1946年まで、MISLSという軍情報部の語学学校があったという。歴史博物館には1820年代以降のFort Snellingの歴史に関する展示があり、一般公開されているとのこと。きっとMISLSについても何か学べるだろうと思った。これは行ってみるしかない。

いざFort Snellingへ

ミネアポリス市街から車で約20分。ミシシッピ川とミネソタ川が交わる地点にFort Snellingはあった。古くから軍事要塞として使用されてきただけあり、地形的にも隔絶された雰囲気が漂っていた。数日前に降った雪がまだ残っており、空気もひんやりしていた。

敷地内に入るとさっそく、日系二世たちが学んだというMISLSに関するパネルが目に飛び込んできた。第二次大戦中、この地で学んだ日系人たちが確かにいたのだという実感が俄かに湧いてきて、何ともいえない気分になった。

Fort Snelling 敷地内にあるMISLSに関するパネル

しかしなぜミネソタに?

しかしどうしてまたミネアポリス、いやセントポール、すなわちミネソタの地にこの学校が設置されたのだろうか?調べてみると、当時の日系人の歴史をめぐる複雑な歴史が見えてきた。

1940年代初頭、日本との戦争が現実味を帯びてくると、米軍内部で日本語の専門家を置く必要性が認識されるようになり、1941年、サンフランシスコに第4陸軍情報学校が設立された。この学校で学ぶ学生としては、主に日系二世がリクルートされ、なかには日本で教育を受けた帰米と呼ばれるグループや、日本滞在経験のある白人も含まれていた。学生たちは、日本語の読み書き、尋問、翻訳、地図の読み方はもちろん、日本軍の構造や日本の政治、社会についても教わったという。

しかし当時、多くの米国人が二世は信用できないと考えており、たとえ米軍の制服を着ていても、見た目が日本人である彼らは差別に直面せざるを得えなかった。週末に街中を歩くのもはばかられたという。

1941年12月、真珠湾が攻撃され、1942年2月には、フランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号を発布し、とうとう日系人の強制収容に踏み切ると、この学校もついに移転を余儀なくされた。しかし移転しようにも、二世に対する疑いという風潮もあり、当時この学校を受け入れる州はなかなか見つからなかった。

そのような中で唯一、受け入れに合意したのが、ミネソタ州のハロルド・スタッセン知事であった。1942年6月、学校はミネソタ州スコット郡のキャンプ・サベージ(Camp Savage)に移転され、名称がMilitaly Intelligence Service Language School (MISLS)に変更された。ここで学ぶ多くの学生が強制収容所出身であった。当時、強制収容所では、軍での言語専門家(日本語の翻訳者、通訳者)のリクルートが活発に行われており、米国に忠誠を誓う多くの二世たちが志願したのである。

「No-No Boy」著者のJohn Okadaも

日系アメリカ人による小説として最初期のものとして知られる「No-No Boy」の著者であるJohn Okadaも、キャンプ・サベージのMISLSで学んだ学生の一人である。彼はもともとシアトルのワシントン大学(University of Washington)に通っていたが、Puyallupの収監センター(強制収容所に送る準備が整うまで一時的に日系人を収容するための施設。その後、Okada一家は、Minidokaの強制収容所に送られた。)に収容された後、収監センター近くのカレッジ(Scottsbluff Junior College)に転入し、そのカレッジで共に学び共に卒業した幼馴染みのFrank Ashida、Roy Kumasakaと共にMISに入隊した。当時周りの学生が皆そうしていたように、彼らもまた、愛国心から当然のこととして入隊を志願したという。

キャンプ・サベージでの起床は朝6時。7時に朝食をとり、行進して校舎まで移動し、日中は7時間の集中授業を受け、夜間は2時間以上の学習が義務付けられた。毎日60の漢字を覚え、毎週土曜日にテストが行われた。テストが終わった土曜日の夜には、ミネアポリスやセントポールの市街への外出が許された。

Fort Snelling のミュージアムショップで購入したJohn Okadaに関する書籍には、カレッジを卒業してMISに入隊した彼らの写真が収められていた。まだ幼くあどけない彼らの表情が印象的である。この3人の若者は当時、その置かれた境遇をどのように捉え、どのような気持ちで入隊したのだろうか。

カレッジ卒業後にMISに入隊したJohn Okada, Frank Ashida, Roy Kumasaka(左から順に)

その後、数年も経たないうちにキャンプ・サベージの校舎は手狭となり、1944年8月には、セントポールのFort Snelling に移転された。成績優秀なJohn Okadaは、キャンプ・サベージで6か月学んだ後、フロリダの部隊訓練に合流し、その後MISLSに戻ることはなかったが、Frank Ashida とRoy Kumasakaは引き続きFort Snellingに移転したMISLSでも学んだという。

当時Fort Snelling のMISLS校舎として使用されていた建物の一部

日本語を学ぶのは二世たちにとっては簡単なこと!?

日系二世を軍の日本語専門家として養成するという考え方は、理にかなっているように思える。二世たちは、一世の親の日本語の影響もあり、日本語は堪能だと思われたのだろう。また、家庭で日本文化に触れた経験もあり、社会的・文化的理解という観点からも、コケ―ジャンよりも日本語習得のスピードは速いだろうと考えるのにもうなずける。

しかし実際には、彼らはアメリカで生まれ育っており、ネイティブ言語は英語。アメリカの学校でアメリカの教育を受けてきたアメリカ人である。彼らの日本語が相当酷かったことを示すデータもある。戦前の調査によると、3,700人の二世入隊者のうち、日本語を流暢に話せるのはわずか3%であったという。

そんな彼らにとって、漢字や「兵語」と呼ばれる軍事用語は新たな外国語も同然であった。MISLSに入校するためには、日本語での会話の流暢さ、日本語の新聞を読める能力がその要件とされたものの、実際の軍のミッションで使える高度なレベルにまで短期間で引き上げるには、相当の努力が必要であった。

例えば、日本軍の文書を速いスピードで英語に翻訳できるようになるため、MISLSの学生たちはまず、漢字を習得する必要があった。Fort Snelling の展示資料によると、彼らは当時、漢字を1日に50ずつ覚え、卒業するまでには何千もの漢字を暗記する必要があった。二世の女学生Atsuko Moriuchiは、400の漢字をそれぞれの物語(story)を作って何とか工夫して覚えたものの、それは学ぶ(learning)というより暗記(memorizing)作業であったため、すぐに忘れてしまった、としている。また、Toshio Abe は、漢字を覚えるために500枚のフラッシュカードを使っていたという。

Fort Snelling 博物館内のMISLSに関する展示。左はToshio Abe

MISLS卒業生たちの知られざる活躍

MISLSは、約6000人を卒業させたが、その大部分が二世であった。初期の卒業生はMISLSの教官になったが、その後、殆どの卒業生は、中国・ビルマ・インド戦線等に派遣された。そこで彼らは、日本兵とコミュニケーションをとり、文書を収集して翻訳し、戦闘に従事した。幕僚幹部となって高度な交渉の通訳を務めた者もいた。彼らは軍のあらゆる部門で活躍し、130以上の戦時中の組織を支えたとされている。

日本が降伏した後、MISLSはさらに発展した。日本占領政策のために多くの日本語の専門家が必要とされたためである。1946年初め、MISLSは最大規模となり、3,000人の学生が在籍していた。女性陸軍部隊の分隊も学校に加えられ、朝鮮語と中国語のセクションも設けられた。

1946年6月、Fort Snelling での最後のクラスが終了し、学生たちが卒業すると、その後まもなく、学校はカリフォルニアに戻った。

第二次世界大戦での彼らの活躍は、ダグラス・マッカーサーの情報参謀であったチャールズ・ウィロビー少将に、「二世たちは太平洋戦争を2年短縮し、おそらく100万人のアメリカ人の命を救い、おそらく数十億ドルを節約した」と言わしめたという。

しかし、このような戦時中のMISLSの卒業生たちの任務は、秘密裏に遂行されており、その活躍は長い間知られざる歴史となっていた。第二次世界大戦の軍事情報文書の機密指定が解除された1970年代になって初めて、彼らの話が公表され、Fort Snellingなどでも彼らに関する情報が展示として公開されるようになったのである。

そんなこともあってか、MISLSの存在そのものや、当時そのような訓練を受けていた二世がいたことについて知る人は少なく、語られる機会も少ない印象を受ける。私自身も、Mさんから「ミネアポリスならMISがありますよ」と言われるまで、その歴史に気づく機会はなかった。

しかし今回、実際にFort Sellingを訪れてみて本当に良かった。そこで見つけた二世たちの生き方、そして、John Okadaやその著書「No-No Boy」は、私にとって、日系人の歴史を重層的に理解する上での重要な出会いとなった。

あまり目が向けられていない歴史こそ知り、その時代を生きた人々の考えや気持ちに寄り添い、そこから丁寧に学んでいくという作業を今後も続けていきたいと思った。


(参考文献)
"Minnesota History", Minnesota Historical Society Press, Spring 2022 
"John Okada, The life & Rediscovered work of the Author of No-No Boy", Edited by Frank Abe, Greg Robinson, Floyd Cheung, University of Washington Press, 2018
Gale Family Library:Military Intelligence Service Language School at Fort Snelling: Overview
https://libguides.mnhs.org/misls
MNOPEDIA:Military Intelligence Service Language School (MISLS)
https://www.mnopedia.org/group/military-intelligence-service-language-school-misls


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