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【小説】 湯煙

「なんでそんなこと言うの!?信じられない!」
唐突に怒り出す人はそこそこいた。大抵の場合、私は何もしていないし勝手に向こうは違う人から聞いた話をする。
「えっと、何かな?」
「え、前に⚪︎⚪︎ちゃんと私のこと話してたでしょ!?」
「うん」
「その時、悪口言ってたってxxちゃんから聞いたんだけど?」
私は悪口を言った覚えなど一度もなかった。
それでも。
言ったことになっている。
言ってないことが言ったことにすり替わることなんてザラなのだ。
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「言ってないよ」
そう言うと、話が長引く。
「へえー嘘つくんだ?xxちゃん言ってたよ、私のこと見下してたって」
「言ってない」
「意地になっちゃって。いいよもう、私あなたと一緒にいるのやめる」
「そっか」
ってパターンで過ごすことが多いのは知っていたから言葉を飲み込んでこう言うんだ。
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「そっか」
この一言に全ての諦めと赦しの笑顔を込めて。

一体、あといくつ許せばいいんだろう。
した覚えのないことで怒鳴られ、蔑まれ、低俗に扱われる。
どんなに仲のいい友人でさえ、そうなりやすい。
「してないならしてないってはっきり言えばいいのよ!」
そんなこと、昔誰かに言われたっけ。
その通りだと思うよ。でも、そんなことを言っても意味がない。
向けられた怒りを訂正する力はない。
「諦めるんだ?」
うん、諦めるよ。だって、怒りをぶつけることだけを主眼と置いている人へ向けて同等の感情を返すだけの熱量はないからね。結局、どこか冷めた目で見て傍観する。相手の気持ちが治るまでなぶられるだけで嵐が去るなら、それでいい。
「つらくないの?」
そんな感情は寝てリセットするから問題ないんだ。辛いと言う感情はできるだけ表情に現れないように。悲壮めいていないように、しなければならない。顔に現れるとまた、被害者ぶってと罵られるから。
生きていると、理不尽なことばかりで嫌になる。

「たまには息抜きしたら?」
そう数少ない友人に誘われて、私は温泉に浸かっている。
湯煙が揺蕩うひんやりした虚空をぼんやりと眺めながら、ぼーっとしていたら、ふっと隣で声がした。
「それで?また何かあったの?」
「んーそうだね、人間ってめんどくさいなって思った」
「なるほどね笑 面倒だよね」
「ほんと、一言で言い表せない感情ばかりでめんどくさいよ」
「それもまた、人生かもね」
冷たい空気に消えていく白い湯煙を眺めながら、いつかこの感情も消えてなくなりますようにと願わずにはいられなかった。

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