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【小説】 fall

私が私でいられなくなった時、信じられないほど過去の記憶に溺れる。
あの時こう言われたなとか、こう言われて辛かったなとか、そういう気持ちの中に沈んで、溺れて。
もがいても足掻いても、まるで水の底から伸ばす手に引き戻されたかのように、苦しい。過去の私が、今の私に手を伸ばして言う。
「しにたい」って。
「そうだね、辛かったね」と受け入れてあげればいいものの、どこか受け入れられない自分がいる。
どこか同調する自分がいる。
「私だって、しにたかった」
でも、死ねなかった。
「私は愛されてなどいなかった」
という事実から目を背けたくて。永遠に、多分生きている間ずっと付きまとう記憶。残像。感情。
黒く渦巻くやるせない思い。
今更、と言われてしまうような些細なことさえ、嫌な記憶として残ってしまったら消すのが大変なのだ。こびりついた皿の汚れと同じで、落とすことは難しい。
わかってる。忘れることが一番の妙薬だって。
でも、私には忘れられなかった。きっとまだ、忘れられるほど昇華しきれていないから。
思い出してしまうのはしょうがないとしても、いつまでもこの気持ちを抱えていては気分が落ち込んだまま、抜け出せない。
そんな状況を憂いてか、先日近所の猫が私の元へやってきた。
アパートの屋根を伝ってご飯をねだる彼女は自由で、気ままで、かわいかった。
「外に出てみようよ」
そんな誘いにも受け取れた私は、旅に出ることにした。
電車をいくつも乗り継いで、バスに揺られて3時間。私は海の近くの昔懐かしい民宿に泊まることにした。宿からは毎日、海が見えた。
私は海を眺めるだけの生活を1週間続けてみることにした。海を眺めるのに飽きた時には読書をして、また海を眺めて、散歩して、また海を眺める。そんな日々を。
朝の光に照らされた輝かしい海を見た日もあれば、昼の曇り空に覆われた空との堺がくっきりとグラデーションになる海も見たし、漆黒の闇夜の中、空との境界もわからない真っ黒な海も見た。どれも艶めいて美しかった。
波の音に揺られて耳が自然に馴染んでいくのを感じるのが心地いい。
潮風が頬を撫でる感触も、植物が朝露に濡れてしっとりと呼吸しているのを感じることも、鼻の奥を通り抜ける季節の花々と土の香りも、どれも私の一部となっていった。不足しているパーツが自然によって満たされていくかのような充足感が、そこにはあった。
人間がいかに同類である人間に対して悩みを持とうとも、自然は変わらずそこにいて、美しく咲いている。
携帯もパソコンもない、ただの世界がそこにはあった。
それに気づけただけで、私は大きな収穫を得た。
「お世話になりました」
そう大きな声でおばさんに声をかけると、ニコッと笑ってお見送り。
「ゆっくりできたならよかったわ。またいらしてね」
にっこり笑うおばさんに釣られて私も笑う顔は晴れやかだ。
旅館の玄関に置かれた鏡に映る自分の顔が、来た時よりも明るくてちょっとだけ驚く。憑き物でも落ちたみたいに。
出ていった私をおばさんが見送った後、旅館の入り口に猫が1匹やってくる。赤い首輪をした彼女はおばさんににゃーんと鳴くと、ご飯をねだっていた。
「あら、また来たの。今日はおじさんが釣ったお魚の残りでもあげましょうかね」
そういうとおばさんは立ち上がりキッチンへ向かった。
柱時計は15時を告げる鐘を鳴らして、私はスキップしながら自宅へ戻った。


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