ふつう

こんにちは。ぱるむです。
今回はふつうについてお話します。

人は皆、変わっているねと言われると嬉しい気持ちになります。
誰しもその人たらしめる個性を持っています。
その個性の強さも人それぞれです。

人は生きていくうちに自分のアイデンティティを求めます。
自分は日本と言う国の滋賀県に住んでいて、〇〇大学に通っていて、△△学部◇◇学科に所属していて、××でアルバイトをしていて…。
〇〇大学に入学したきっかけはこうこうこうで…。
××のアルバイトを通して私はこういう人間で…。

自分の所属が明確になり、さらにはその組織で自分にしかできない行い、あるいは自分の個性がより明瞭になるような出来事があれば、
自分自身のアイデンティティがより一層認識しやすいものとなります。

アイデンティティを認めると、自分の存在意義を感じることができます。

人は皆死ぬ。
人生なんて意味はなく、諸行無常と言う言葉があるように、成り行きに身を任せることも重要な考え方です。
しかし、大半の人間は自分の生き方に対して達観するよりも、「自分には人生で成し遂げる使命がある」「生きる意味を見つけなければならない」
と自分の生き方に意味づけをしたがります。

自分の人生に意味や目標を見出すと、生きやすくなるからです。
「何のために生きているのだろう」
と一度考えてしまうと、思考が負のループに入り込み、抜け出せなくなります。

自分の人生に意味づけをするために、人はアイデンティティを明確にしたがります。
自分の人生に意味を見出すには、個性的であることが大きな意味をなします。

変わっている、個性的である、という評価を貰うということは、
他の人間と違うという評価と同義です。

他の人間と違うということは、他の人間では成しえないことを成し遂げる力がある可能性があるということです。
他の人間では考えが及ばない境地に達することができるということです。
他の人間には持っていない観点から、物事にアプローチすることができるということです。

また、個性的という言葉の中に、ポジティブな意味合いが含まれている場合、それは自己肯定感を上げる材料になります。

「私には他人にはできない特別なことをできる人間だ」
と思うことで、自己肯定感が上がり、それが自分の使命感に繋がります。


私は個性的と言われることが嬉しい。
変わっていると言われて悪い気はしません。
普通と言われるとなんだか寂しくなります。

ぱるむという人間は世界に一人の素敵な人間だと自認しています。
それは自己肯定感が高いのではなく、事実として心の中にとどめています。
自分自身が最低限認めてくれないと、他人のちょっとした言葉に揺らいでしまう、ということを学んだからです。
その経験を経て、どんなにひどい言葉をかけてくる人に出会ったとしても、自分が最低限自分を愛して認めてあげれば無敵の人になると思いました。

正直、この「自分を愛する」という話は難しい論題だと思います。
家庭環境、育った境遇、その人が人生で関わった人、様々な要因がその人が自分のことを愛せるか否かに大きく関わっていきます。
自分のことを大切にするなんて、そんなこと誰でもできていれば、うつ病や自殺などをはじめとする精神疾患なんてほとんど存在しません。

私が今、最低限自分を愛することができるのは、今の恋人や周囲の優しい友人のおかげです。
そして、私が育った環境や、家庭環境がある程度整っていたことも大きな要因です。

そんな私が、そんな素敵な私が、
目の前の人にとって「普通」と評価するに値する人間なのか、と思うと少し寂しく思います。

それでも私自身が自分のことを個性的だと認めています。
自分にしかできないことがあると信じています。
そして私は人生に意味づけをしたがる、生きる意味を見出したがる人間なので、大衆と同じように
アイデンティティと人生の意義を結び付けます。


一番見苦しいのは自分の中に個性が無いからと言って、奇抜なことを行い、自分自身の性格を可視化しようとする人です。

私は母を批判します。
母は母親としてとても素敵な人です。
母のようなおかあさんになりたいです。
けれども、母の価値観には共感しがたい部分がいくつかあります。

母は2年前にLINEを始めました。
母はこのご時世、スマートフォンを持っていません。
ガラケーとタブレットで連絡を取っています。
タブレットは回線の契約をしていないため、Wi-Fi環境下でしか連絡を取ることができません。
それどころか、通知がうるさいとのことで電源を切っていることもしばしばあります。

ガラケーにこだわっている理由は、ガラケーを使用する人は仕事ができる人、だからだそうです。

この発言でぱるむのイライラポイントが2つあります。
1つ目は、相関関係と定量化が曖昧な点です。
ガラケーを使用しているから仕事ができるということは、何を根拠に信じているのでしょうか。彼女にとっての仕事ができる、とはどのように定量化できるのでしょうか。
仕事仲間や友人にいちいち別途メールで連絡事項を遅らせていることに関しては、迷惑をかけているという認識はないのでしょうか。
2つ目は、ガラケーを使い続ける、という事に自身の個性を表そうとしているという点です。
自分の個性が無いから、自分にできることが無いから、わかりやすいこだわりを持つことで個性を表現しようとしているのではないのでしょうか。

こんなこと、母には言えないし大切に育ててくれた母なので大きな感謝の気持ちでいっぱいなのですが、たまにふと、この気持ちが脳裏をよぎります。

個性的であることは、別に可視化できるものでなくても、別に相手に気づかれなくとも、自分自身で認めて良いな~とぼんやり思うだけで及第点だと思います。

あまりに過激な個性を表現されると、
自分自身の意味づけに必死な人なのかな、と一歩引いていしまう自分がいます。


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