見出し画像

映画「C'mon C'mon」

こんにちは。ぱるむです。
今回は映画「C'mon C'mon」を鑑賞した感想を書きます。
殴り書きで読みづらい部分があると思いますがご笑納ください。
ネタばれアリです。


この映画は、2021年のドラマ映画。マイク・ミルズ監督、出演はホアキン・フェニックス主演。全編白黒で撮影されている。


 ジョニーの感情を上手に表すことができないその態度に共感した。自分の後ろめたいことを見つめたり、自分が悪いと素直に認めたりすることを大人は子どもに強要する。「人を傷つける大人にならないでね。」「善い子でいてね。」「ちゃんとごめんなさいを言おうね。」そして大人になった子どもは、大人に教わった「善い人間」でありたいから、保身のために嘘をつく。自分の素直な感情まで押し殺してしまう。それは、もしその気持ちを表現したら相手に迷惑がかかるのではないか、あるいは相手に受け入れられなかったら怖い、という動機なのかもしれない。きっとジョニーは、ヴィヴとポールの関係をはじめとする多くの過ちを認めていた。そしてそれについて反省していた。けれどもジェシーから見れば、それはジョニーが自身についた薄っぺらな嘘のように見えたのだろう。ジョニーとジェシーが飲食店で会話していたシーンが印象的であった。


 ジェシーは度々何者かのモノマネをする。それはレスラーであったり、親のいない子供であったり、色々なものになりきる。そしてその姿で物事を言う。これはジョニーと似ている部分だと思った。ジョニーは在りたい自分、在るべき自分でいようと自分の感情に嘘をつく。理想の自分になりきる。反対にジェシーは自分の中の言葉にしようの無い感情を、何者かに投影させて表現する。大人から見れば、煩くてばかばかしいただのごっこ遊びにしか見えないかもしれない。けれども何かになりきって言葉にしようの無い感情を表すことは大人こそ必要な遊びなのかもしれないと感じた。ジョニーは映画が進むにつれて、意識的にごっこ遊びをしているように見えた。


 不安に駆られたときに、何かに自分を投影させて話すことはいい感情表現の方法かもしれない。自分自身で自分の言葉を話すことは非常に勇気がいる。改まって「話し合いをしよう。思っていることを素直に言ってごらん。」と言われても、私は困る。相手が心の奥底で何を考えているか分からない。これは当たり前のことだが、改まって話し合いの場を設けられるといつも以上に疑心暗鬼になってしまう。それならばいっそ、感情のコントロールが苦手なモーツアルトになってしまえばいい。自分は不器用な人間なんだ、と誰もが知る著名人、あるいは架空のキャラクターでも良い、そういった人に代わりに喋らせておけば良い。その態度は非常に素直で誠実だと思う。人を傷つけないように、相手に迷惑をかけないようにしようとするがあまり、自分自身を「善い人」でコーティングして薄っぺらな会話をするなんて本末転倒な話である。


 また、ジェシーのふるまいをみていると、彼の9歳ならではの無邪気さや鋭さに幾度となく泣いてしまった。9歳は子どもである。けれども、子どもはよく大人を見ているし、大人が自分たち子どもにつく嘘、つまり「善い人」でコーティングしているかどうかなんてすぐに見抜いてしまうのだと驚嘆した。それと同時に、子どもを侮っていたジョニーの気持ちが痛いほどわかった自分を見たとき、私はもう大人側なのだと思い知らされた。ジョニーははじめ、9歳というだけでジェシーを侮っていた。徐々にジェシーの人となりを知り、ジェシーの態度によってジョニーの気持ちが素直になっていく。後半では一人の人間として対等に接していた。私も日常の中で肩書などのただの記号で相手を扱っている場面があったかもしれないと自省した。

 
 ではなぜ、相手を記号で判断して、侮って接してしまうのだろう。それはたくさんの人と関わっていくうちに、体感ではあるが統計的に傾向をつかむことができるからだろう。そのデータは膨大になればなるほど偏見となり、確固たるものとなっていく。このデータをもとに人と接することで自分が辛い思いをしなくて済むのである。ジョニーはヴィヴから、ジェシーは一人の立派な人間である、と電話で伝えられていた。中盤ではジェシーを一人の人間として接しようと試みるも、彼に拒否されてしまう。誰かに善意で歩み寄り、それが完全に拒否される痛みが私の過去の経験とリンクされてまた泣いてしまった。ジョニーはジェシーのことを「所詮子どもである。」と心のうちで思っていたのだろう。そしてその舐めた態度はジェシーに見抜かれていた。だからジェシーは、途中で歩み寄ってきたジョニーに「9歳を舐めるな。お前の薄っぺらな嘘はバレバレだぞ。」と言わんばかりに「ぺらぺらぺら」と馬鹿にしたような態度を示した。もしかしたら、過去に私を拒否した彼らは、私が自分自身に対して、そして彼らに対しての無意識でついていた嘘を見抜いていたのかもしれない。彼らのことを何一つ理解せずに、記号だけですべて理解した気になって、彼らが求めているであろう救済を「善い人」でコーティングした状態で与えていたのだろう。それに気がつかずに「私の善意を受け取らないなんて酷い。」と薄っぺらな理解で終わらせていたのかもしれない。

 
 母親としてのヴィヴは、偉大である。多くの問題を抱える夫と向き合いながら、9歳のわが子とも等身大の人間として大切に向き合っていた。社会の責任を、認めたくない暗い部分を母親と言う存在に押し付けてしまう。言い換えれば、母親は私たちのすべてを受け入れてくれると言っても過言ではないほど大きな存在である。ヴィヴは悩みながら、考えながらジェシーと接して進んでいく。私もヴィヴのような母親になりたいと思った。彼女のように、どんな人間でもまっすぐ向き合い、相手の言葉の裏に隠れた気持ちをそれとなくくみ取ることができる、分かったような気にならず常に振り返って考えて考えることができる、そして素直に謝ることができる、そんな母親になりたいと思った。そんな母親のもとに育ったジェシーだからこそ、人は分かり合えない。でもそれでいい。という言葉が彼の口から出てきたのかもしれない。

 
 人は複雑で面倒な問題ばかりを起こす。ときに、この世界には自分の気持ちを理解してくれる人なんて誰もいないと、天涯孤独なのだと心を閉ざしたくなるかもしれない。けれども、自分自身のことをよくわかっている人間なんて何人いるだろうか。誰も、自分自身さえも理解してくれる人など存在しない。でも、それでいい。上手に言葉に表せないならば、ごっこ遊びをすればいい。それは誰かに偽って物を喋る態度であるが、それによって素直な気持ちを表現できるのならば、誠実な話し合いだと言えるだろう。


 この映画で普段私が感じている人との接しずらさ、そして自分が自分でないような感覚、自分の気持ちを上手に言語化できないもどかしさ、人とすれ違っていく軋轢の音、人間関係における様々な悩みが一掃された気がする。もちろん、何の解決にも至っていないが、一時的に心が軽くなったような気がする。そして将来、また同じように悩んだ時この映画を思い出すだろう。そして同じように心が軽くなったような気がして、また次の日から生活を送る気がする。


C'mon C'monのサントラを聞きながらこのnoteを書きました。とてもいいので是非。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?