シェリー・ケーガンに学ぶ「死」とは何か

こんにちは。ぱるむです。
今回はイエール大学哲学教授のシェリー・ケーガンより「死」について考えていきます。
彼の講義は大学内で23年連続で「最高の講義」に選ばれています。

また、本書より抜粋し第10章と第12章の内容をふまえて考えていこうと思います。


「死」はなぜ悪いのか

一般に、「死」は悪だとされています。人間が死ぬとういうことは、単にその人の人格が入った器が壊れることであり、多くの複雑な機能をやってのける身体が動かなくなることです。
その人が自分の身体の死後も存在し続けるというわずかの論理的可能性を死守できるとしても、そのような可能性のひとつとして本当に実現しうる確かな根拠はありません。
「死」とは一巻の終わりです。全てが過去になります。
死が悪いということは永遠に生きるのが良いということなのでしょうか。

ここで「死ぬということは決して悪いことではないよ」と思う方がいるかもしれません。私も最初はそう思っていました。
けれども本を読み進めていくにつ入れ、潜在的に「死」が悪いと考えている自分を見つけることができました。

まず、魂の存在を信じている人にとって「死」は悪いものです。
魂は人間の身体を器としてそこに生きています。そのため、器が壊れてしまうと魂はどこへ行くのでしょうか。
魂が器としていた人間が死んでしまった暁には、その行き場を考えなければいけません。
死は悪いものと考えることができます。

次に、「死」とは残された人にとって悪いものだと考えることができます。
最愛の恋人が死んだら、最愛の娘が死んだら、経済的に支援してくれた親戚が死んだら、それは残された人、その人を心のよりどころとしていた人にとって、その人の死は悪いものです。
けれどもこの考え方だと、死んだ人にとって「死」が悪いものだとは限らなくなります。
「死」そのものが本人にとって悪いことか、という議論をする必要があります。

別離という考え方があります。
別離とはその人と二度と会うことができなくなり、意志疎通も図ることができない状態のことです。

宇宙船のたとえ話をしましょう。
第一の話は、あなたの親友が宇宙船に乗って他の惑星へ調査しに行く話です。彼女が地球へ戻ってくるのは100年後。その頃にはあなたはもう生きていません。彼女が調査をしに行く惑星は時間の進み方が異なっているため、彼女はたったの10歳年を取った状態で帰ってきます。
宇宙船が地球から飛び立ち、30分間は無線で会話をすることができます。その後は連絡を取ることができません。
彼女と抱き合うことはおろか、顔をみることも意思疎通を図ることもできません。

親友は決して死んだわけではないけれど、別離したため死んだも同然です。きっと悲しい気持ちになると思いますが、この宇宙のどこかで精力的に調査をしていると考えると応援したくなるような、心が熱くなるような感情にかられるかもしれません。

第二の話は、宇宙船が飛び立った15分後に不慮の事故で宇宙船が爆発します。無線で会話をしていたのですが、大きな爆発音とともに通信が切れました。宇宙船の位置情報も消え、彼女は死にました。

第一の話でも第二の話でも別離は起こります。それでも第二の話の方が悪いと思うのは、その宇宙船に乗った彼女にとって悪いと考えるからです。
別離が悪い、残された人が悲しいという話ではなく、やはり「死」とは死ぬ人にとって悪いことなのです。
それがどうして真実なのか考える必要があります。

非生存、「死」とは機会を奪うから悪い、という考え方があります。これを剥奪説といいます。
生きていれば、きっといい大学に入って優秀な成績をおさめて良い企業に就職していっぱいお金を稼いでいただろう。
生きていれば、今の恋人と結婚して子供を産んで温かい家庭を築いていただろう。
このように、生きていれば経験できた、あるいは享受できた利益を得られなくなってしまった。そのため「死」とは本人にとって悪だと考えることができます。

本書では「死」がなぜ悪いものなのか、明確な回答が出ていません。様々な考え方を私たちに投げかけてくれました。
宇宙船の話で言うと、圧倒的に第二の話の方が悪いと感じます。それは剥奪説から来ていると思います。
彼女は人類の期待を背負って、勇気を振り絞って大きな一歩を踏み出しました。
10年間活動するうちのたった15分で彼女の勇気がはかなく散りました。
もし生きていれば、彼女の力が最大限に発揮されて大きな発見があったかもしれない、と考えると、やはり彼女にとっても私にとっても悪いと考えることができます。

「死」はどんな時でもタイミングが悪すぎるのです。
本人にとっても、残された人たちにとっても「死」は悪い影響を与えます。それはどんなタイミングでもです。
けれども、死んでも負の影響を最小限にするタイミングがあるかもしれないのです。


死が教える「人生の価値」の測り方

「死」とは悪いものとなることがあります。
それは生きていればいいことを経験できるというタイミングで死んでしまえば、その機会が失われるからです。
しかし、全体として人生がもう良い機会を提供できなくなったら、死ななかったら経験できたはずのことを足し合わせたらプラスではなくマイナスだとしたら、その時に死ぬのは実は悪いことではなく良いこととなります。
「死」は良いものとなるはずだった人生の一時期を奪うときには悪いものとなります。
「死」は悪いものとなるはずだった将来を奪うのならば悪いものではなく良いものとなります。

では人生における良い、悪い、とは一体何を指すのでしょうか。
これは前提として人生の質、自分がどれほどいい境遇にあるか、あるいはなるだろうかという点に関してこの種の全体的な判断を下すことができます。

まず、嬉しいものとそうでないものを列挙していきましょう。
仕事は持つ価値があります。仕事が無ければ生きていくことができないし、社会的にも立場が無くなってしまうでしょう。
お金も良いものです。お金があれば豊かになります。
チョコレートやアイスクリームも嬉しいです。口の中で甘みが広がって幸せな気持ちになります。
病気になると嫌な気持ちになります。頭が痛くて下痢になって数日うなされます。
失業も嫌です。仕事が無いと生きていけないからです。
戦争も巻き込まれたくないものです。

次に、本質的に良いもの/悪いものと間接的に良いもの/悪いものを分けていきましょう。
仕事は本質的に価値がある良いものなのでしょうか。
仕事をする理由はお金が手に入るからです。お金が無いと生きていくことができません。
お金は本質的に価値がある良いものなのでしょうか。
お金自体に価値はありません。ただのコイン、ただの紙切れです。
そのお金でモノや時間を購入するから価値があるのです。
チョコやアイスは本質的に価値がある良いものなのでしょうか。
それ自体は砂糖や卵など食材の塊です。それを食べることで、美味しいと快楽を覚えます。
では、快楽は本質的に価値がある良いものなのでしょうか。
快楽で得られるものは思いつきそうにありません。
快楽はそれ自体に価値があると考えることができそうです。
これは「内在的に価値がある」と表現するそうです。
嬉しくないものも同様にすると、本質的に良くないものは「痛み」に帰着しそうです。

では、本質的に価値があるものとそうでないものを唯一、快楽と痛みに限定してみます。
これは快楽主義と呼ばれます。
人生の価値を、プラスとマイナスの計算から測りましょう。
快楽を感じた時間、痛みを感じた時間を計算し、快楽を感じた時間がより多いほど人生には価値があると考えることができます。
これは人生全体はもちろん、部分部分でも評価しています。

快楽主義に則ると、快楽しか感じない装置があったとして、その中で生きていくのが一番価値があることとなるのでしょうか。
その装置ではVRの世界でとてもリアルな現実を映し出すものだとします。
その装置の中で「エベレストに登りたい」と望めば、リアルな映像とともに実際に少しの苦労はあるものの登頂することができます。
「起業してたくさん金を稼ぎたい」と願えば、装置の中で起業をして大金持ちになることができます。
完璧な装置です。快楽しか感じない、人生に価値しかない、そんなふうに思わせてくれる素晴らしい装置です。
それでも何かが足りないと感じさる。
完璧ではないと潜在的に思わせると思います。
それは、その装置の中でエベレストに登ったとしても、実際には登っていないからです。
装置の中で大金持ちになったとしても、実際には一円も儲かっていません。

「死」「人生の価値」について他にも様々な主義があります。
楽観主義者は「人生は常に生きる価値がある。存在しないことにいつまでも優る。」と考えています。
悲観主義者は「私たちはみな死んだほうがましだ。それどころか誰にとってもそもそも全く産まれなかった方が良かっただろう。」と考えます。
穏健派と呼ばれる人もいます。穏健派は一概に言えません。
「差し引きがプラスの人、老いればマイナスの人もいる。人生全体についても人生の特定の時期についても当てはまる。」と考えます。
穏健派に則ると、具体的なケースについての事実を検討する必要があります。

快楽主義を元に考えると、人生はその中で何が起こっているのかが重要だと考えることができそうです。
ただ快楽を感じたいだけならメタバースの世界で生きれば良い。その中で素晴らしい偉業を成し遂げてお金持ちになれば良い。
けれども実際に行っていることは画面に向かって操作している、そんな人生。ただ人生で起こっている事実を取り出すとそうなってしまいます。
生きていること自体に価値がありません。
人生や人の身体はただの器に過ぎません。
その中に価値があるもの、そうでないものを入れていくのです。
それにより人生にどれほどの価値があるのか測ることができます。

植物状態になっても生きていること、鼓動が動いていることこそに価値を見出す人もいます。
生きているだけで総計はいつもプラスになるという考えです。
著者は「夢のような器説」と表現しています。
インターネット上では「生きているだけで偉い」という言葉がよく使用されます。
これは夢のような器だと考えることができます。
植物状態の人間は、何も価値を生み出さない。本人にとっての快楽を生み出すことなく、むしろ動かない身体(器)に対する心身的な痛みを感じているかもしれない。
それでも、植物状態の人間の周りにいる人にとって、「再び起き上がり、微笑んでくれるかもしれない」というわずかな希望を与えているという点において価値を生み出していると考えることができる。

よく考えると「生きているだけで偉い」という考え方は、なにもせずとも人生に価値があって、本人にとって快楽を感じていてという暴論に過ぎません。
それでもこの言葉が広く市民権を得ているということは、人生において価値を見いだせない人、つまり、これから生きていても良い経験ができない、人生の総計がマイナスになるだろうと考えている人にとって、無条件に人生の総計をプラスにしてくれる魔法の言葉として多くの人の心の拠り所となっているのです。

これからの人生を考えたとき、マイナスの方が大きいと考えたとき、良い経験ができそうもないなと思ったとき、死んでしまえばいいのです。
その人にとっての「死」は悪いものではなくむしろ良いものです。
それでも、「生きているだけで偉い」という言葉を頼りに、人生の総計をプラスにしたい、つまり「死ぬのは違う」と思わせるのは、本質的に「死」が悪いものだと考えているのです。
単純に死ぬのは怖い。生きていく上で得られる痛みと死ぬ恐怖を天秤にかけたとき、後者が勝った場合否が応でも生きていく選択肢を取ります。

人生の価値は快楽と痛みだけで測ることができません。
様々なパラメータがあり、どれを取捨選択するかにより解釈が異なります。
この一例を元に、また「死」について考えていこうと思います。
もし本を読んだなら感想を語り合いましょう!
特定の章だけでも大丈夫です。

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