二次元的な自分

こんにちは。ぱるむです。
今回は自分の中にいる、大きく分けて2人のぱるむについてお話しします。

神経症として解離性同一症、一般的には多重人格と呼ばれる症状があります。顕著に表れる人ははっきりと、年齢、国籍、思想などががらりと変わりそれがその人の一人格として表現されます。

よく、私という性格は一つではなく、接する人、置かれる環境などにより振る舞いが変わるといいます。
私が自分を見つめたとき、外的要因により自分の態度が変わることを認めています。けれども、外的要因によらず常に2つのわたしが自分の中にいる気がします。


一人は過激で白と黒がはっきりしているわたし。
好き嫌いがはっきりしていて、批判的に物事を見ているようなわたしです。

例えば、友人と関わっているとき。
自分の中で心地よい会話のテンポでラリーを行えるとき、相手のことを好きだなと思う。相手と自分の知識レベルや知能レベルに大きな乖離がないため、気持ちよく会話をすることができます。
会話の中で相手が自分の知見を、視野を広げてくれたとき、相手に尊敬の意を抱きます。同じような会話の繰り返しだとつまらなくなってしまいます。どんどん話が拡大、あるいは収束していき新たな発見に出会うことが面白いと感じます。

友人と関わっているとき、私は相手の要素を一つひとつ見て選定しています。これは無意識の中でやっています。気が付かないうちに優劣をつけています。優劣をつけて好き嫌いを決めています。
選定する判断材料は自分の価値観に基づいています。

私は自ら考えて行動することができるのに、どうしてあなたはできないの?
私はそんな初歩的なところでつまずいて悩まないのに、どうしてそこでひっかかるの?
私はそんなつまらないものを面白いと思わない、もっと面白いことがたくさんあるのにその程度で満足できるの?

どうして人を選別してしまうのだろう。

私の中の価値観を整理しようと思います。
一つ目に、私ができることに基づいて相手を判断しています。
私は精神的にある程度安定していると思います。根はポジティブです。
人並み以上に悩むことがあっても、現時点での解決策をとりあえず出してとりあえず動いてみます。変えることのできないことは一旦受け入れてみるか思い切って無視をしてみます。
だから相手がいつまでも同じところでうずくまっていたり、どうしようもないことに時間を割いて身を滅ぼしていたりすると、見下してしまう自分を抑えることができないのです。

二つ目に、私の中にある面白いの基準に基づいて相手を判断しています。
人の興味関心は十人十色です。
私は何かの分野において深いものがあると面白いと感じます。
いわゆるオタクが好きです。
ラーメンに詳しい人、関西のラーメンに詳しい人、さらにはスープに詳しい人、など何かのスペシャリストであればあるほど魅力的だと感じます。
人生についてよく考えている人、過去や将来ではなく現時点での自分を考えている人、さらには誰かに言いづらいような理解されないような境地にまで考えを巡らせている人も立派なオタクだと言えます。

思考オタク。
だから相手の興味関心が浅いと私の考えもジャンクな考え方に切り替わります。

もちろん、SNSで受動的に情報を得ることは素早くて手軽で面白い。毎日レベルの高い文献に触れていたら疲れてしまう。
もちろん、頭を使わずに会話することが楽しいと思う。毎日深いところで考えていたら疲れてしまう。
けれどもジャンクな関りに慣れてしまうと、私がいなくなってしまいそう。
私の大切にしなければいけない、形にできないものを本当に形にできないままジャンクになってしまう。ゴミクズになってしまう。

思考はデッサンだと以前の記事で述べました。
やはり、自分の中でたくさんたくさん考えたことはデッサンのように、何本もの線で形成する必要があります。
その線というものが言葉であり、キャンバスはノートや会話の場です。

だからこそ、普段つまらない浅い話ばかりする人を見ると、
せっかくの思考を言語化する場、せっかくのデッサンの場をそのようなつまらない話に使って勿体ないと思わないのかな、と疑問に思うのです。

私ができていて相手ができていない、私が面白くないと思っていても相手が面白がっている、
以上二点の価値観に基づいて私は人に優劣をつけているのです。

とりわけ前者は優生思想に結び付けることができます。
身体的、精神的に障がいがあり、私ができることをスムーズに行うことができない人がいます。
私はその人の背景やどのように生きてきたのか、考えてきたのかをすべてすっ飛ばして見下します。

以前ADHDについての記事を書きました。
ADHDの方は努力では変えられない部分がある。そしてその部分について本人自身はしっかりと受け止めて悩んでいる。
理解はしているものの、やはり見下してしまう。

自然淘汰されればいいのに。
まさに優生思想そのものです。

相模原障害者殺傷事件についてよく考えます。
2016年7月26日未明に、神奈川県相模原市で発生した大量殺人事件。
知的障碍者施設の元職員が刃物を所持して侵入し、19人を刺殺、計26人に重軽傷を負わせました。

知的障碍者って生きている意味はあるの?
健常者が支援してまで生かす意味は?
意思疎通ができないならば人間ではない?

容疑者の主張は議論の余地があります。生命倫理の観点からはっきりと正誤を出すのは難しい。
彼の主張に私の中の一つの人格、過激で白と黒がはっきりしているわたしが静かに賛同しているのです。

カサンドラ症候群というASD支援者が鬱状態になってしまう症状があります。
ASDという現代社会で生きづらい人を、健常者が鬱状態になってまで支援する必要はあるの?


もう一人の人格は、ブレーキをかけることにってしているわたし。
過激で白と黒がはっきりしているわたしを落ち着かせてくれるわたし。
倫理的、道徳的、そしてこれまでの経験から、自分の過激な思想に歯止めをかけてくれます。
この人格は、一人目の人格に依存しています。
つまり根本的な思想は過激で白と黒がはっきりしている思想なのだと思います。
でも、二人目の人格のおかげで穏やかな人間関係を築くことを可能にしています。


一人目の私も、二人目の私もこの社会の構造で潜在的に作り上げられたわたしな気がする。
私はどこまで行っても資本主義の枠組みから逃れることができません。
普通とされている大きな方向性に沿って進む。
大学に入り、就職をし、家庭をもって晩年をゆっくり過ごす。
その流れに沿っている中で個を謳う。
私は唯一無二だと信じる。
自分を可愛がる。他人とは違う自分に満足する。
他者より優れているところを見つけて安心したがる。
そして自分よりレベルが低い人間を見下して排除しようとする。


もし、もっとちがう枠組みの中でぱるむがいたなら、ちがう経済社会で、ちがう法律の下で、ちがう価値観の枠組みでぱるむがいたなら、
どんなぱるむになっていたのだろう。
まずは、違う枠組みの知見を広げたいな。
どう頑張っても資本主義か社会主義化の二択から離れることができません。




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