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ネパールの震源の村で見た、共に生きる暮らし

電気も水も通らない山の村を訪ねて

今井 門谷JUMBO優さんとサティスさんに、ネパールについてお話を伺ってきましたが、今回はちょっとイレギュラーで、フィールドアシスタント代表の村上さんをゲストとしてお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

村上 よろしくお願いします。

今井 実は村上さんは南極や北極をはじめ、国内外の様々な極地に出かけて、人の暮らしをこれまで見てこられました。ネパールでも様々な暮らしを見てこられたということなので、今回お話を伺いたいなと思います。

村上 ちょっと緊張しますね。違和感満載です。

今井 早速なんですけれども、2015年にネパールで大きな地震があった後に、日本人が全く入ったことがないボタン村というのでしょうか、そこに支援に入られたということなんですが、この村はまずどんな村なんでしょうか?

村上 前回、サティスさんに出ていただきましたが、サティスさんの時もちょっと話題に出たシンドパルチョック郡という、カトマンズの盆地から、やや北東の、ネパール地震の震源地と言われてるところです。もう本当に直下といっていいような場所にある村です。

その辺りは、基本的に山の中です。ただ山の中といっても標高でいうと3000メートルちょっと手前ぐらいか、それぐらいのようなところです。ずっと奥の方には真っ白ないわゆるヒマラヤの風景が見えるんですけど、村々は基本的に木が生えていたりとか、緑の世界です。

どの村もそうなんですけど、その辺りは山肌をずっと添うように街道がありまして、村で育てたトウモロコシとかを担いで売りに行ったり、それぞれの村からカトマンズに何日もかけて出てくる、そういった生活のための街道です。幅は車が1台通れるか通れないか。もちろん舗装もされてない道なんですけど、そこにいくつか村が転々としてるわけです。その中のボタン村です。
村に入ると山の急斜面なわけですけれども、下にも上にもずっと手で切り開いたような段々畑が広がり、山肌なので、一番下には川が流れてることが多いんですけど、谷を挟んで反対の山肌にはやっぱり村が見えるし、あとはずっと緑みたいなところです。

今井 村にはどれぐらいの人口がいて、大体どういうものを作ってるんですか。

村上 そうですね、ちょっと全体を把握できないんですが、そのボタン村で言うと、100人いるかいないかぐらいじゃないかなっていう気はします。一つ大事なのがボタン村には学校があります。学校って、そのボタン村だけじゃなくて、もうちょっと離れたところにも1軒単位で家が散らばっているんですけど、そういったところから通ってきたりとか、それこそ隣の村には学校がないからこっちに来てる子もいると聞いてるので、ボタン村はそういった意味では、周辺の村の中でもやや大きめの村だったかなという気はしますね。

今井 震源地に近いということだったんですけど被害はどんな感じだったんですか。

村上 そういった山肌の地形なので、いたるところで地すべりが起きていました。斜面がえぐられたようなものがあるし、その下にも村があって、トラックぐらいの大きな石が村に落ちちゃってるような状況です。ボタン村に行く過程でも、本当に村全体が潰れてしまっていました。それぐらい大きな中でも、ボタン村に関して言うと、石が落ちてきたようなことはなかったんですけど、ネパールの家って石をレンガのように積み重ねて、壁を作るっていう家が多くて、その上にトタンであったり、古いタイプだと木とかそういったものになるんですけども、そういったもので屋根をかけることが多いように見受けるんですけど、その石垣の積み方が垂直方向にはものすごい強いんですよ。よくぞこれ手で積んだなってぐらいです。僕もちょっと水平器を置いてみたんですけど、ものすごい水平がきれいになってる。それが別に大工さんが作らないで、その辺のおじちゃんとかお兄ちゃんとかが「こんな感じかな」といって積み重ねている。でもめちゃめちゃ綺麗なんですよ。ただ、残念ながら横揺れにはすごく弱いんですね。石の一つひとつの角がシャープなので、それに潰されちゃって亡くなった方がかなり多いというような状況がありました。
あとは水であるとかそういったものが、水道みたいなものは通ってないです。水道管は全然通ってないし、ガスみたいのも通ってない。もし通ってるとしたら、水力発電の電線が上の方をたまに通っているんですが、これも普通の村では電線も通ってないんです。水はその辺の沢からホースで繋いでいってくるんです。そういったものがとにかく寸断されてるような状態でした。かなりの人が家を失ったような状態でした。

今井 ボタン村ではかなりの人が家を失ったんですか?

村上 そうですね。基本的に完全に残った家っていうか被害のなかった家はなかったと思います。仮に住めたとしても、それが住めるのか住めないのか全然判断するすべもないので、やっぱりほとんどの人がもう家の中に入らないで、外でブルーシートで仮の屋根みたいなのを作って生活しているような状態でした。

今井 村上さん入られたのは2015年4月が地震が起きたと思うんですけれども、何月ぐらいだったんでしょうか。

村上 直後にカトマンズとかに入ってたりはしたんですけど、ボタン村に入ったのは1年ぐらいたってからです。

今井 それではもう1年間そういう暮らしをずっと村の人たちはされていたんですね。

村上 そうですね。地震の直後に入って、その後1年ちょっと過ぎたあたりでボタン村に入って見ても、あんまりその直ったなって感じなかったです。

みんなで組み建てられるドーム屋根を届ける

今井 村上さんはどんな支援をしようとこの村に行かれたんでしょうか?

村上 何度か前に、トーカンパッケージの皆さんにゲストに来てもらいましたけど、あのときちょっとダンダンドームというキーワードが出ましたけど、手作りで作れるシェルター屋根です。
当時はプラスチックダンボールで作っていたんですけど、ドーム状の屋根を、1棟しか持っていけないかったんですけど、それを国内でいろんな仲間たちと手作りで、ホームセンターで道具を買ってきてパッケージして、僕の個人的な荷物の延長で大きな預け荷物に積んで持っていって、村の人たちと一緒に組み立てをしました。

今井 日本人が全く入ったことがないということでしたが、最初どういうふうに受け入れてもらったというか、自己紹介はどういうふうにされたんでしょうか?

村上 僕はネパール語今でも全然喋れないですし、村の子供たち村の人たち含めて別に英語はすごく勉強していても片言だったりするわけですよね。
僕も別に英語がめっちゃくちゃ喋れるわけじゃないので、かなりまず喋れないっていうとこですよね。
あとボディーランゲージも、やっぱそれもちょっと違うわけです。例えば僕らは「うん」ってうなずくときって縦にうなずくじゃないですか。でも、インドの人たちもそうだと思うんですけど、ネパールの人たちって、うなずくときに首をかしげるんです。こういうギャップがもうたくさん積み重なるので、コミュニケーションの難しさは感じます。でも向こうもものすごい野次馬根性なので、みんなわあって寄って来るんですけど、コミュニケーション取ってくれないんですよ。
むしろ怪訝そうになってるっていう形でしたね。

今井 でも村の人たちには受け入れてもらったんですか。

村上 村に何日いたかな。その時は1週間ぐらい村にいたんですけど。実は僕だけじゃなくて、ネパールの歯医者さんが一緒にカトマンズから来てくれて、タダで診療する活動をやっていたし、オーストラリアからも2人来ていて、少しお金を持っている方で、サティスのツアーによく参加された方だと思うんですけど、何とかしたいと思って来ていました。あとはいろんな支援物資みたいのも当然持って行ってたんですけど、僕だけちょっと異質というか、モノを作るということで、本当に支援になるのかしら、喜んでくれるのかしらみたいに思いながらでした。結果としては、ドームが組み上がった後は引っ張りだこで、「今日は家に泊まれ」みたいな感じで引っ張りだこだし、谷を超えて、二つ三つ先の村から見に来たり、でも僕はその最後徒歩で帰るわけですけど、結構な行く先々で「もしかしてお前はあの例のドームを作った日本人か」みたいな噂になってるぐらい、どういうふうに伝わってんのかよくわかんないんですけど、そういうふうになるぐらい実際喜んでもらえたんです。

子供たちからは「コルサニダイ」というあだ名をつけてもらいました。コルサニとは唐辛子のことで、ダイは兄さんみたいな意味で、「唐辛子兄さん」みたいな感じなんです。僕が、向こうのダルバートというご飯を食べるときに、「もうちょっと辛いのないか、青唐辛子ちょうだい」みたいなことをよく言ったので、こいつはネパール人より辛いものが好きだぞっていう感じで、コルサニダイと呼ばれてるんです。

4歳とかそれぐらいの女の子が最後、僕に庭で採れた唐辛子をビニール袋に何本か入れて差し出してくれたんです。本当にレジ袋みたいなもので、日本人から見たらなんか、なんでこんなものに包んでいるって思うかもしれないけど、物資がない中で、ビニール袋ですら実は結構珍しいものです。もちろん極端に珍しいものじゃないですけど、いわゆるなんとなく多分この色の袋、家の中で一番綺麗な穴の開いてない袋を選んでくれたのかなって思うような感じでくれたんです。

もう何年も経ちますけどね、当時の小学校の子たちはもうだいぶ大きくなって、電話くれたりとか、そういうこともあるぐらい、歓待を受けました。

今井 ダンダンドームは当時は別の名前だったと思うんですけど、それを建てることで、何を届けたいというふうに思ったんでしょうか?

村上 一つは家が崩れているので、そのシェルターとしての機能ですよね。要は、揺れても頭の上に落ちてこない屋根です。あとプラスチックダンボールって、カラフルなんです。その時持っていったのは赤と黄色の組み合わせ、プラスチックダンボールなんですけどそれが非常に明るくなるので、中にライトを保つとすごく綺麗に写るんです。
すごく色が好きな国なので、色を届けるっていうところもありました。ブルーシートみたいなところの屋根の下で人は、集うのってせいぜい1人2人とかですけど、本来は家族単位で屋根の下に収まることを大事にするんですね。そんなときでも当時のドームは直径4メーターぐらいあったんですけど、その下に何十人も入れるよっていうのは結構それだけで皆さんテンション上がってました。
あとは実はそのドームを作るときにその下に、輪っか状に石垣を積んで、その上にそのドームを載せたんです。その石垣の積み方を日本の石垣の積み方で積んだんです。ちょっと斜めにして、横揺れに強い積み方をやって、揺れない積み方っていうのも実はあるんだよっていうのをちょっと見せに行くという意図もありました。

今井 すぐ習得されてできるようなものなんですか。

村上 石垣は、もちろん積むことがものすごく得意なんですけどただ、石というのは平らに積むもんだっていう文化の人たちに、最初僕が斜めにやろうとした。すぐにそれは違うって止められて、「いや、いいのいいの。こうやってやりたいの」といって、なんかわけわかんないけどなみたいな感じだったんですけど、でも出来上がって横からガンって蹴ると、ほら、全然大丈夫でしょと言ったら、もうなんか手品師かのように、お前は何なんだみたいに思われたりしました。
ドームのほうも、結局、見よう見まねでみんなが作れるような設計にしてるので、学校の広場でカラフルなパーツを広げると、何だ何だ?ってすぐに野次馬が集まってきます。最初は誰も手伝ってくれず、黙々と作り始めると、最初ちょっと生意気そうなやんちゃな子が一番最初に「僕もやる」みたいな感じでやってくれるんです。そうする以外と見よう見まねで出てきてるから、そうすると、大人たちとかいろんな人に何かその子がネパール語で、自慢げに喋るわけですよ。そうするとみんなワーッて集まってきて、奪い合いのようにドームができちゃいましたよね。
そっからですよね。自分でこんなのができたっていう驚きと、あれがこうなるんだっていう驚きと、みんなでそれを目撃して、みんながそれを自分も関わったんだっていうその力でしょうね、多分僕はそんな歓待を受けたとか、コルサニダイって呼んでもらったのは。

今井 おそらく居場所を届けてくれたっていう嬉しさもあったんでしょうけど、みんなで共になれるそういう経験が届けられたのかなとお話を聞いてて思いました。

(文 ネイティブ編集長・今井尚、写真提供 村上祐資)

次回のお知らせ

次回もフィールドアシスタント代表で極地建築家の村上祐資が見てきたネパールについてお話しします。出会った村や建築から、ネパールの人たちの暮らし方や姿勢が見て取れます。
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