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春よ、来るな/文章とか文才について

散歩:13371歩。

春よ、来るな

花粉症である。

長く続いていた雨がようやく落ち着いてきたと思ったら、次は危険極まりない怪しげな粉が飛んでくるようになった。
バイト中でも散歩中でも容赦なく顔に張り付いてきては許可もなく人様の柔らかな粘膜に侵入し暴虐の限りを尽くしていく。
後に残されるのは大量の涙と鼻水である。

花の粉、などとふんわりした可愛いらしい言葉で飾ってはいるが、その花弁の奥に居るのは間違いなく悪魔であろう。

アレルギー性春ぶち壊し症候群とかに名称を変更すべきだ。

おかげで外にいる間はマスクをしなければならず、それでも花粉の侵入を完全に防ぐことはできなくてくしゃみをしまくるものだから、顔面と情緒が大変なことになっている。
今日なんかはマスクとティッシュを忘れて(これは私が悪い)散歩に出かけ、案の定花粉に襲われ敗北し、真昼間に涙をはらはら流しながら歩き回る不審者に成り果ててしまった。

これはさすがにまずいと思い帰り道にドラッグストアに寄ったのだけど、花粉症用の薬(20錠くらい入ってるやつ)が3400円で売られていておったまげた。
動揺して店内をしばらくうろうろした後、トイレで顔を洗って退散した。

だから春は嫌いなのだ、と思った。
空は雲ひとつない晴天だった。


文章とか文才について

気付いたらこのnoteアカウントも150人以上の人にフォローされていて(いったいどういう経緯でここに辿り着いたのかとても気になる)、これが多いのか少ないのか、ちゃんと読んでもらえているのかどうかこちらからはいまいち分からないのだけれど、以前よりもずっと「人に見られている(読まれている)」という意識を強く持って文章を書くようになった。

良くも悪くも、である。

適当なことを書き散らかしていた頃と比べて言い回しや言葉選び、表現に対して慎重に向き合うようになった。これは良いことだと思う。
逆に、気の利いたことを書こうとして本来は簡潔に締めくくられるはずだった文章が空回りしたり、何か含蓄のあることを書かねばと変に焦って結果的に仕上がりが大変にしょうもなくなったりもした。これは悪いことだった。

文章を書く上でその向かう先というか、読み手がどう受け取るかを考えて筆を握るのはとても大切なことではあると思うのだけれど、それを意識しすぎて自分の元々持っていた文章的癖のようなものが薄れたり、あるいは歪みが生じてきているような気がするのだ。
そういうものを蔑ろにすると、私が大学生の時にライターのアルバイトで納品していた「誰でも書ける金太郎飴的文章」しか書けなくなってしまいそうな、そんな恐怖がある。

折に触れて、文才とは何だろうかと考える。分かりやすい文章を書く能力だろうか、レトリックをふんだんに用いた技巧的な文章を書く能力だろうか、語彙の多さだろうか、表現の豊かさや奥行きだろうか。

個人的には、どれも正解でどれも不正解なのだと思う。
文章を書くという行為が書き手から読み手への一方通行なコミュニケーション方法であり、また受け取る側の読み手が個々の性格や嗜好を有している時点で、文才とはとどのつまり書き手側にはどうしようもない、「私(読み手)好みの文章を書く能力」という定義に収まることになる。ある文章を読んでそうした感想を持った人が多いほど、その文章の書き手は「文才がある、いい文章を書く」と評価される傾向にあると言っていいかもしれない。
昨今のインターネットを眺めていると「分かりやすい or 共感しやすい」内容の文章を書く人が多くの支持を得ているようにも見える。
もちろん、「支持を得ている≠文才がある」ではあるのだけれど。

結局好みの問題という、釈然としない結論になってしまった。

こういうことを書くと「そもそも商業的物書きでもないくせに自意識のお高いことで(笑)」と思われてしまうだろうけど(実際、その意見はごもっともである)、趣味の範疇であれ曲がりなりにも小説やら日記やらを書いている身としては「文章的核」のようなものをひとつだけでも持っておきたいというささやかな欲求があるのだ。
それを理想に近い形で(たぶん完璧は無理だ)出力できるように、且つこれは人の目に触れるものなのだと考えながら、サイズの合う靴を吟味するみたいにそれらの間にある丁度いい「しっくり」を今後も模索し続けるのだと思う。

そうして書かれた文章は、私から離れてもちゃんと目的地まで歩いてくれるはずだ。
たぶん。

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