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逍遥日記#2 電気羊

 老人がいった。「どこへ行こうと、人間はまちがったことをするめぐり合わせになる。それが━━おのれの本質にもとる行為をいやいやさせられるのが、人生の基本条件じゃ。生き物であるかぎり、いつかはそうせねばならん。それは究極の影であり、創造の敗北でもある。これがとりもなおさず、あらゆる生命を貪る例の呪いの実体じゃ。この宇宙のどこでもそれはおなじこと」

フィリップ・K・ディック 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 , p231

今日は散歩には行かずにずっと宿舎の自室で本を読んでいた。というか、外出用のジーンズを洗濯して外に干していたので、乾くまで部屋から出られなかったのだ。
ズボンはこの1着と部屋着用の短パンしかなくて、短パンは着て歩き回るにはやや薄すぎた。

荷物を最小限に抑えているからこれは仕方がないのだけれど、無駄な用意のいい私は旅先では雨や暇な時間、あとはこういう状況(着る物がなくて部屋から出られない等)に見舞われた時のために本を数冊連れていっている。旅先で買うこともある。

さらに今日は仕事も休み。
急ぐ理由が無い。
ので、誰にするでもない言い訳を重ねてダラダラと本を読んでいた。

読んだのはフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だ。
ところで、私のスマホは「あんど」まで打ち込むとアンドロイドより「安藤なつ」が先に予測入力されるのだけれど、なんで?
まぁどうでもいいか。

この本は昔読んだことがあったけど内容はほとんど覚えてなくて、どちらかというとハリソン・フォードが出てた『ブレードランナー』の記憶の方が強い。
改めて小説を読み返すと主人公のリックとアンドロイド達の対決シーンが驚くほど短い。映画版は逆にそのシーンがかなり引き延ばされていた。
最後ってこんなオチだったっけ? と思いながら結局夕方までじっくり読んだ。

個人的にはリックとアンドロイド達による人間性への問いよりも、サイドストーリーのような形で本編に介入するウィルバー・マーサーの存在が気になった。冒頭の引用はマーサーのセリフでもある。

マーサーは作品世界における宗教の教祖で、どこかの坂を延々と登り続けている。その姿を人々は共感ボックスという装置を通して認識し、感情移入することで自身の人間性に確信を得ている節がある。
この感情移入、あるいは共感能力がヒトとアンドロイドの分水嶺とされているのだけれど、表層的な感情移入ならアンドロイドにも模倣することができるせいで話は非常にややこしいものになっていた。

ネタバレになりかねないのでこれ以上は内容について言及しないが、感情移入の表層性というのが妙に引っ掛かった。

つまり自分以外の何かについて感情を作動させる時、そこには段階というか、レイヤーのようなものがあるという仮説と、その深度によって人間性が規定され得るという仮説。

例えば怪我をした人を見たとする。
皮膚が裂けて血が出ていて苦痛に顔を歪めている、というのは感情としてダイレクトなのでわかりやすく共感できる。
では皮膚の下、肉の内側、つまり精神の奥深くで蠢く感情に共感を持てるだろうか。
意地の悪い言い方をすれば、精神異常者や狂人の心を理解できるだろうか、それに共感できなければ果たして人間ではなくなるのか、という問いが生まれるのだ。

人間にできるのは結局共感のフリだけで、人間性なるものの核を明らかにしたければやはり魂や精神といった領域に足を踏み入れなければならない。

やり方はさっぱり分からんけど。

というか、仮にウン年後の未来に自他にある魂の底に辿り着く方法が見つかったとして、それが一体何を意味することになるのだろうか?

何も知らないで共感したフリをしながら阿呆面ぶら下げて生きた方が、ニート的には幸せな気が……、しないでもない。

不完全、不合理、白痴、それらを解決せんとする渇望。
それがマーサーの言う呪いなのだろうか。

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