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辻褄が合うような理由はない。

最近、理由はあるようでない気がする。


いや、正しくは。



理由はある。ちゃんと存在している。
そうなんだけど、それを人間が理解できないだけなんだと思う。


だから、「自分の頭の中で辻褄が合うような理由はない気がする」が、冒頭の文章の真意かもしれない。


はい、ここで訂正をしておきます。





人間の五感でキャッチできないエリアで、宇宙の意思が働き、因果というものが作用していて。
考えることで、どうにかその流れに想いを馳せられるようになっているなら。
なんとか宇宙の意思の一部を感じられるのなら。

ホント、因果が見えなくて理由がわからないのは、しょうがないとしか言いようがない。




これが最近のワタシの頭の中で駆け巡っていること。




というのも私は自身を、どうにも「理由をつけたがるタイプの人」のように感じる。

いや、おまえさんだけじゃあないですよ、と思ってくださるそこのあなた。
どうもありがとう。優しいですね。



確かに人間ってもんは、理由を欲しがるものなんかもしれないですね。

だって理由があれば、理屈が通っていれば。
楽だから。それを信じて動けばいいのだから。
そして何より、安心できるから。



うむ。安心して、委ねて生きたいよね。






でも、リアルライフの中で”それらしく見える理由”は、実は宇宙の意思とは全く別物ってことも、あるのではないかと思う。


人間は、知っていることだけしか考えられない。頭の中に、知らないことは起こらない。
全く知らない言語で「りんご」と耳にしたところで、「りんご」が浮かばないのだ。りんごのイメージが起こらないのだ。


その言葉を知っていなければ。




きっと、宇宙の中にはこの上なく辻褄のあった理由があるのだろう。



でも、それを知りえないから。
とりあえず、自分の頭の中で考えつく限りのことで、何かしらの動機や理由を作る。






ヨガの聖典の中に出てくる言葉に、「プラーラブダムカルマ」というものがある。

今世で刈り取るべく用意された、因果のようなものを指すのだけれども。



今、自分の周りに起こっていることが。

今世の自分の行動の結果なのか。
もしくは、5809回目の生でやらかしたことの結果なのか。
7001回目の生で、誰かに手を差し伸べたことの結果なのか。



そんなの、知る由もない。わかり得るはずがない。





でも言えるのは、その個の意思が反映されて、ちゃんとリターンされてるってこと。



今の私の周りに起こっていることに、ちっぽけな人知から理由を探すと、辻褄は合わない。

でも、古から伝えられてる聖典を基に考えるなら、ちゃんと理由はあり、この上なく理にかなっている。

(Yogaの聖典の結論について書かれてる本 ↑↑↑)



じゃあ、もうそれでいいじゃないか。



急にこんなことを言いだしたのは。
旦那さんが、家具を作ると言い始め。


またいつもの思いつきと思いきや、今回はどうやら本気らしい。



私のことじゃないし、陸でできる良い趣味かもと思っていたら。

木材を触ることなんて、図工の時間以来の私にも、一緒にやろうという流れをもたらしてきた。




なんかしらんけど。
とりあえず、木に触ってみるとするか。




うむ、今日も一生懸命、木に触れよう。
一生懸命、廻ってきた事をやろう。



では、今日も良き日を。

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