小説:本棚

 本屋で3時間過ごした。
 そして何も買わなかった。

 本屋で何も買わないのは、俺にとっては珍しいことではない。本そのものより本屋という空間が好きで立ち寄るので、雰囲気さえ楽しめればそれでいい。かめのようにゆっくり歩いて、立ち読みして、壁に掛かっている絵を見て、また歩き始める、の繰り返しに満足したら店を出る。家の最寄り駅まで歩いてきた頃には、読んだ本の題名も、内容も、おぼろげになっていて、ただ線香の香りをまとったパリのエスキースを思い出していた。
 

 バスを待っている間、「よっ」と後ろから声をかけられた。

「高野?」

 もう試験は終わったが同じ講義をとっていて、隣の席だった高野。話しているうちに彼と在籍期間が一緒だったことが判明し、最終レポートを手伝って欲しいと懇願された。

「おーよかった覚えてた。おかげでなんとか単位取れたわ。サンキュな」

 彼はこのあたりの塾でアルバイトしている。これから出勤とのことで、再びレポートの礼だけ言うと足早に人混みへ消えた。せわしい背中を見送って振り返ると、ちょうど目的地方面のバスが来た。

 レポートを手伝いに高野のアパートに行ったとき、彼の本棚が印象的だった。雑誌ばかり読んでそうな彼の本棚には、有名な芸人のエッセイ、お金の管理に関する本、ジャンプ系の漫画はいくつかのタイトルが10巻ずつあった。ちょうど目線の高さに合った赤い本が気になって手に取ると、音楽関係の本だった。

「高野って音楽やってるの?」

 俺が尋ねると、「まさか」と首を横に振った。古本屋でジャケット買いしてからまだ1度も開いていないらしい。

「フィーリングよ。日本人が書いた本だって感覚的に意味わからんやついっぱいあるし、外国人が書いた本だってピンときたら買いたくなる本あるんだよ。音楽だって同じだろ」

 この本はイギリスの伝説的ロックバンドに取材したものだと説明すると、爆笑された。彼はドイツの急行列車を舞台にした推理小説だと思っていたらしい。アルコールが回ってひとしきり笑った後、突然黙ったと思ったら「元カノみたいだ」と呟いた。
 

 本棚は誰かの人生を表しているという。
 小学校の頃遊びに行ったTくんの本棚は、単行本漫画の間にTくんが(算数のノートに)描いた漫画もしれっと入っていた。
 無口な先生のピアノの教室はラフマニノフやショパンの楽譜が整列していた。
 今日行った本屋には、物好きな店主のために書かれたような詩集やエッセイが積み上げられていた。
 格言大好きな祖父の本棚は、哲学や宗教、占いについての本が今も所狭しと並んでいるだろう。
 
 じゃあ俺は?俺の本棚は?
 
 バスに揺られてか、分厚い参考書を思い出してか、若干吐き気がした。だんだんひどくなったので、バスを降りるまでぎゅっと目を閉じていた。

 家のカギを開けて誰もいない家の階段を駆け上がる。
 部屋の電気をつけ、自分の本棚を見上げる。隣の部屋からゴミ袋を持ってきて、まず真っ白な新書を手に取った。

「いらねえ。ああ、これもあれも全部いらねえ」

 社会の動向、地理学、財政、司法・・・・・・新書の大半は、父から半ば強引に押しつけられた。誕生日に親戚からもらったり、先輩から譲り受けたものもある。自分で買ったのは大学のレポート用に購入したものくらいだ。棚の半分が新書なのに、内容を覚えているのは両手で数えられるくらいしかない。

「父さんにとって為になっても、俺にとっては・・・・・・どうだったろう」

 小説は少なかった。朝読書のためだけに用意した芥川賞作家や直木賞作家の本と、夏目漱石、太宰治、ドストエフスキー、カフカ・・・・・・あと親戚の知り合い(?)の地元作家が書いた本。なんで小説は全体的に長いし、もやもやしていてじれったいんだ。家族も特別に小説が好きではなかったので、俺に一般教養をつけることが目的だったのだろう。

「内容忘れてもネタバレサイトで見ればいっか」

 一番下の段には小学生のとき買ってもらった図鑑シリーズが数冊。まだあったのか。アトラスオオカブトが載っている虫の図鑑は大のお気に入りで、家に遊びに来た友人に必ず見せていた。おかげで小学校6年間「カブトムシはかせ」のあだ名で過ごした。そういえば、「クワガタはかせ」のTくんは元気だろうか。

「・・・・・・ごめんな」

 小さい頃は熱中していたものの、今はそこまでではない。ただ、これ以上見ていると捨てられなくなりそうだったので、そっとゴミ袋に入れた。

 業界地図、司法試験の参考書、六法。重いものは段ボール箱に詰めた。家系的に警察や司法関連の仕事についている人が多く、自分もそうならなければと思っていたのだろう。小学校の卒業文集に「将来は裁判長になりたい」と書いているが、当時は宇宙飛行士になりたかったときもあればプールの監視員になりたいときもあった。職業ではないが、世界中のカブトムシを飼いたかった時期もあった。

「俺、2浪してまで何になりたかったんだっけな」

 手に取った本ひとつひとつをゴミ袋に詰めていく。俺の世界を造っていたものたちが一斉に崩れ落ち、じりじりと灰になる姿を想像しながら。


 俺の本棚はからっぽになった。からっぽの本棚をこれから何で埋めようか。あるいは本棚を小さくして、楽器や室内運動具をおけるようにしようか。
 下の階から「ただいま」と聞こえた気が無視して無視して布団に潜り、そのまま眠りに落ちた。


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