小説:文鳥フォンデュ

  正直困惑している。うちの部署ではバレンタインに女性社員から男性社員へチョコを送ることになっているらしい。普段は女性社員全員からお金を集めて代表者が良さげなチョコを買ってくると予め聞いていたが、先ほど田崎さんから伝えられた内容はそれとは異なるものだった。何が「及川さん、今年のバレンタインはよろしくね」だ。人のデスクにフローラルの匂いを振りまいた挙げ句、即帰りやがって。上司の田崎さんはイベント好きで社交的な反面、人の話を聞かずに何かを進めるときがある。あと毎日柔軟剤の匂いが強い。
「え、だって及川さんお菓子作り得意なんでしょ。一人一人に高いチョコ買ってくるより安く済むし合理的じゃない。あ、これ材料代の200円。クッキーだとバレンタインぽくないから高見えするチョコでね。じゃ私は仕事あるから。ちゃんと木野さんにも材料代請求するのよ。私、今日も早く帰らなきゃいけないから」
 いや承諾してないんで。いろいろと突っ込みたいところはあるが、田崎さんはすたすたと帰ってしまった。取り残された私は木野さんに相談しようと思い、席を立つ。共有スペースの個包装せんべいの袋を取り、握りつぶした。木野さんに一連の話をすると「何も言われなかったから廃止になったのかと」と冷めた返事をされた。
「とはいえ直前の連絡は困りますね。今2月13日の19時ですよ。今年、いえ、もういっそ今後義理チョコ制度廃止でいいのでは」
 話し終わると、木野さんはどこか他人事のように分厚いファイルをめくってキーボードを叩き始めた。義理チョコ制度。廃止できるものならそうしたいところだが、田崎さんとトラブルになることや職場の空気を悪くすることは避けたい。今この部署にいる女性で一番長くいるのは田崎さん、一年前に新卒で就職したのは木野さん、そして今年異動になったのが私である。噂によると田崎さんとトラブルになった社員も数人いるらしい。そして私が異動になったのも、田崎さんとそりが合わなかった人が辞職したからだとか。田崎さんとのトラブルも心配だが、一番の悩みどころはもらう側の気持ちがわからないことだ。職場で義理チョコをもらって全員が嬉しいわけではないだろう。
 目が力むほど迷っていると、木野さんがべしんっとエンターキーを叩いた。
「で、作るんですか。聞かれてないけど私はお菓子作り無理です。なので、もし作るんならあとで材料費の領収書ください。田崎さんの100円・・・・・・と残り私で出しますから。それか今年は・・・・・・」
「いや、作ります。助かります」
 木野さんは気まずそうに目を伏せた後、「何かあったら連絡ください」と再びキーボードを叩き始めた。

 アパートに帰ると、掠れたホイッスルのような鳴き声が聞こえた。つい先日から私の家の住人になった茶色い文鳥だ。1ヶ月ほど前に部屋の窓を開けて換気していたら、例の文鳥がカラスに追われて入ってきた。保護したばかりの文鳥は、羽をばたつかせる度に羽毛が抜け、鼻をつく柔軟剤の匂いが広がった。鳥の生活環境でこの強烈な匂いはかわいそうだったが、皮肉にもこの柔軟剤の匂いが強くてカラスから逃げ切れたのかもしれない。その後一度警察に届けたものの飼い主が見つからず、一昨日交番から引き取ってきた。名前はまだ無い。木野さんにそのことを話すと、「権兵衛でもフローラルでもいいので名前はつけてください」と返された。

 私が居間に入るなり、文鳥は「びーっ、びーっ」と物干し竿から威嚇した。またケージのドアを開けられてしまったのか。引き取ってすぐの頃はケージから出しても部屋の隅でじっとしていたが、一昨日の晩からはよく餌を食べよく暴れよくティッシュを噛みちぎった。
 ケージに戻した文鳥に水と砕いた米粒をやり、買ってきた材料をテーブルに置いた。チョコの甘ったるい匂いがキッチンを中心に広がる。木野さんによると、男性社員は全員チョコを食べられるが、ダイエット中の人と甘すぎるのが苦手な人が数名いるらしい。インターネットでバレンタインについて調べてみると、男性側も楽しみにしている人はいる一方お返しに気を遣うのが煩わしい人もいるという。結論、一体どうすれば良いんだ。考えても仕方ないので、とりあえずミルクとビター2種類の生チョコを用意することにした。

 一応チョコ作りは順調に進み、いよいよテンパリングだ。温かいチョコの入ったボウルを氷水に入ったボウルの上に置いてゴムべらをゆっくり回す。2つ目に取り掛かってしばらくすると「くるるる」と鳴き声がした。
「もうおなか空いた? 今手が離せないから。待ってて」
 振り向いた直後だった。文鳥がこちらへ飛んできて、冷やしている途中のチョコレートにダイブする。私が呆然としている間に、文鳥は羽をばたつかせて、私が握っていたゴムべらを吹っ飛ばす。文鳥は羽までチョコにどっぷり浸かって、泥浴びならぬチョコ浴びを始めた。テーブルやらシンクやらガス台にまでチョコの滴が飛び跳ねる。何が起きたか分からずスマホカメラで写真を撮った後、しばらく呆然としていた。が、チョコが犬や猫によくないということを急に思い出し、ボウルの中でうとうとし始めた文鳥を急いで鷲掴みにして水道をひねった。

 嵐の後、という表現が相応しかった。ガス台やシンクに飛び散ったチョコは固まって、倒れた2つのボウルからチョコがこぼれている。シンク周りは水とチョコでびちゃびちゃだ。洗い物もまだたくさんある。テーブルの上は材料や料理器具で散らかっていて、使っていないものにまでチョコが飛び散っていた。充満した甘ったるい匂いを吸い込むと、全部重いため息になって出ていった。
「これ全部掃除するのか」
 さきほどまで暴れていた文鳥は、何事も無かったかのようにテーブルでちょんちょん飛び跳ねている。幸い頭にはほとんどチョコを被っていないようだったが、一応あとで動物病院に行こう。
「はーあ、台無しかぁ」
 時間が遅いので、もうチョコレートは作れない。少なくともキッチン周りの掃除や洗い物だけで1時間はかかる。とりあえず文鳥の夕食となる米粒と水だけ用意して、そのまま布団に寝転がった。
「これじゃしょうがないよ。作らなくていいよね」
 一応木野さんに連絡だけしておこう、と思いさっき撮った写真を送信した。洗い物も掃除もする気力が無くてごろごろしていると、文鳥が何かを加えて飛んできて、私の頭に落とした。
「んー何。・・・・・・米じゃん」
 普段なら怒りたいところだが、あいにくそんな気力も無い。落とされた米粒を拾っていると、夕飯を食べていなかったことを思い出した。袋ラーメンの湯を沸かしている間にスマホを見ると、木野さんから連絡が来ていた。あの人はなぜか対面よりもSNSのほうに感情が出やすい。木野さんからの「チョコフォンデュじゃないですか笑」というツッコミを既読にすると、続けて「ところで、明日この文鳥フォンデュの写真使って構いませんか?」とメッセージが来た。
「おもしろいですよ。バレンタインどころじゃないのは、おそらく及川さんだけじゃなさそうなんです」

 翌日出社すると、珍しく田崎さんと木野さんが先に来ていた。怪訝な顔をしている田崎さんと、いつも通りの木野さんに軽く挨拶する。
「及川さん、荷物少ないみたいだけど今日忘れてないわよね」
「ええ、ちゃんと持ってきましたよ」
「ならいいけど」
 笑いそうになるのを少し俯いて隠す。既にばれていそうだが。行きがけにコンビニで買ったファミリー用ブラックサンダーを持って共有スペースに置きにいった。そのまま電気ケトルでコーヒーを入れていると、木野さんがアルフォートの袋を開けてブラックサンダーの隣に置いた。
「及川さん、こんなもんでどうでしょう」
 手招きした木野さんにピンクの小冊子を渡される。ぱらぱらめくって、思わずおぉ、と声が出た。「これでいっちゃいましょ」と小冊子を開いてお菓子の隣に立てる。見開きにはメッセージとチョコに浸かった文鳥の写真。
「社員のみなさん、いつもお世話になっております。今年は諸事情でチョコを配りません。代わりに共有スペースのお菓子をちょっと増やしましたので、どうぞ食べてください」
 マグカップを持ってデスクに戻りながら、花モチーフのマステやシールで華やかにデコレーションされた小冊子を思い出す。木野さんに現像してもらった文鳥のベストショット。ボウルでチョコ浴びする文鳥、指に乗っている文鳥、ソファで眠っている文鳥の写真。そして最後のページには写真の代わりにメモを挟んだのだ。これでも飼い主が名乗り出なかったら、もうフォンデュかマシュマロと名前をつけよう。木野さんには申し訳ないが権兵衛もフローラルも却下だ。
「こちら、1ヶ月程前に保護した茶文鳥です。保護当時、現在及川が引き取っておりますので、ご家族や心当たりのある方はこちらにご連絡ください」
 コーヒーの匂いに、かすかに柔軟剤の匂いが混ざる。田崎さんが共有スペースの写真立てを手に取って、猫背になるほど凝視していた。

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