身を修める。【修身教授録一日一言】読書感想②

お疲れ様です。総務部総務課マモたろうです。
【修身教授録一日一言】読書感想②です。

『修身教授録』は、戦前、天王寺師範学校で行われた森信三氏による「修身科」の講義録であり、発売から約20年を経た現在も版を重ねるロングセラーである。教育界のみならず、スポーツ界や経済界のリーダーにも愛読者は多い。本書は、その最良のエッセンスだけを取り出し、 366の言葉にまとめたものである。

【修身教授録一日一言】Amazon解説より

「修身」という言葉は使われなくなりましたが、本書はまさに修身教授録から取り出した言葉ですので、この言葉の意味を引用します。

修身
① 自分の行ないを正し修めること。身を修めて、善を行なうよう努めること。
② 旧学制下の小学校・国民学校などで、道徳教育を行なうために設けられていた教科の名。教科は昭和二〇年(一九四五)連合軍総司令部の指令によって廃止。

精選版 日本国語大辞典

本書は辛辣な言葉が並びますが、時に優しさも感じます。「読書と実践」を繰り返し述べられております。逆にいうと、この時代も本を読む人は限られていたということでしょう。
修身、自分の行ないを正し修めることは、こんなにも難しいことのか。なんでこんなにも困難になっているのか。人間が「考える」ができる故に、歴史を積み上げることができ、その可能性の大きさが、逆にこの困難さをつくりだしているのかもしれないとも感じました。

無礼講
人間の地金は、お酒の席でよく分かるものです。いい年をしながら、宴会を無礼講だなどと考え違いをして、勝手のいい放題をしているようでは、人間も一生浮かばれんですネ。

人を教える道
人を教える道は、一転して、自ら学ぶ果てしのない一道となる。

優れた師①
叱らずして悦服させる

本当に偉い方というものは、そうみだりに声を荒げて、生徒や門弟を叱られるものではないのです。第一その必要がなかろうと思うのです。
大声で生徒を叱らねばならぬということは、それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠です。つもりその先生が、真に偉大な人格であったならば、何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。

優れた師②
共に道を歩む

優れた師匠というものは、常にその門弟の人々を、共に道を歩む者として扱って、決して相手を見下すということをしないものであります。
ただ同じ道を、数歩遅れてくる者という考えが、その根本にあるだけです。ですから、自分一人が山の頂上に腰を下して、あとから登ってくる者たちを眼下に見下して、「何を一体ぐずぐずしているのか」とうような態度ではないのです。

【修身教授録一日一言】森 信三 (著), 藤尾 秀昭 (編集)

優れた師への言及にぐっときました。
「ただ同じ道を、数歩遅れてくる者という考えが、その根本にあるだけです。」
格好良い。これは教える立場になった方には是非覚えていただきたい。

真に徹して生きる
人生はしばしば申すように、二度と再び繰り返し得ないものであります。したがってまた死・生の悟りと言っても、結局はこの許された地上の生活を、真に徹して生きるということの外ないでしょう。

【修身教授録一日一言】森 信三 (著), 藤尾 秀昭 (編集)

二度と繰り返し得ないものとわかっているはずですが、それ故にかけがえのないものだから大切にしようということには、なかなか至れません。
「二度と無い=大切」という論理めいたこと自体が勘違いかもしれません。
大切かどうかではなく、生きるのが面白くて仕方ない、これを残しては死にきれんなどの「情」の話なのかもしれません。

お読みいただきありがとうございます。


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