正論ではなく「吐く」行為が嫌がられているのではないだろうか。
お疲れ様です。総務部総務課マモたろうです。
今回は「正論を吐く」について思ったことです。
少し「正論」がかわいそうだなと感じましたので。
ふと思ったことですので、ふわっとしてます。
ちなみに私は正論は掲げるようにしています。
「(現在の情報だと)あるべき姿はこれだと思いますが、そうできない理由を整理しましょう」のような。
だって正論を吐かれる側の時って、相手は正論を投げつけてきたり、正論で殴りかかってきたり、だいたい顔が怖いじゃないですか。
ですので、私は吐いたり投げたりは(あまり)やりません。
また「道理は通らない」ことはできないと信じていたいため(それが通るのなら、前提条件や目的が違い別のルートがあるのだろう)と心を静めています……。
「正論を吐く」ことは比較的幼稚なことだという風潮を感じます。
かといって企業の自浄作用も必要とされており、内部通報制度の整備も重要視されています。
また組織開発において「心理的安全性」も重要視されています。
どっちを信じたらよいのかわからなくなります。
困ったものです。
「正論を吐く」を整理するため辞書を引用します。
これは……。
正論が、ではなく「吐く」行為が嫌がられているのでは?
例えば相手に「現状はわかったけど、あるべき姿(正論)は何?」と問えばどうなるだろうか。
例えば「あるべき姿はこうだと思うのですが、悔しいですね。なんでだめなんでしょうね」と相手に向けずに吐露するとどうなるだろうか。
「吐く」という行為で「正論」までもが貶められてはいないだろうか。
「正論」かわいそうです。
昨日は風が強く吹いて「風、嫌い」って思ったのですが「強く吹いている」ことが嫌だったわけで、風は好きなほうでして……。
行為のせいで「主語」ごと嫌いになることあるよねって
共有してみたかったのです。
頑張れ正論、負けるな正論。
少し「正論」が元気になるいいなと願いを込めて。
お読みいただきありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?