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「我が意を得たり」は嬉しい。そして危ない。

本を読み自分が考えていることが書いてあると嬉しくなる。
まだ「カタチをなしていない考え」がうまく言語化されていると「我が意を得たり」と更に嬉しくなる。研修、そしてnoteでも同じことがある。

読書や研修は新しい知識や方法を学ぶことも重要だが、自分の考えが肯定され「我が意を得たり」と自信につながることも重要だと感じる。

最近の「我が意を得たり」を紹介する。
私は文章力が低いことを痛感し、noteを始めた。今は【文章力の基本】を読んでいる。
この本で著者は、日本語は曖昧・非論理的だといわれていることに対し、論理的であるが日本人が曖昧な表現を好む傾向があり、曖昧に使おうとしていることが原因だと述べている。
この日本人が好む傾向に「我が意を得たり」があった。

(1)日本では、お互いに相手が「一を聞いて十を知る」利発さを持っていると信じているかのように振る舞うので、すべてを明確な言葉で説明してしまったら失礼にあたると考える。

(2)日本は同質社会で、人と同じであることがいいことであり、人と違ったことを言うと白い目で見られるので、相手との意見の相違があからさまにならないように、お互いに曖昧な表現で相手の意向を探り合おうとする。

【文章力の基本 簡単だけど、だれも教えてくれない77のテクニック】阿部紘久 (著)

「お互いに相手が『一を聞いて十を知る』利発さを持っていると信じているかのように振る舞う」「お互いに曖昧な表現で相手の意向を探り合おうとする」。ここである。

私は「大人である」ことを前提とし過ぎていると感じていたが、更に真に迫った表現で心が弾んだ。

組織は仲間や同士であるが、互いに利害関係者であり競争相手でもある。
相手の利発さを前提にした会話、意向を探り合う会議に心当たりはないだろうか。

ここまで言語化していると改善方法も探しやすい。

「我が意を得たり」は嬉しくなり、自分の考えが肯定されたと自信につながる。
自信が源となり、行動に力強さがでる。これも読書や研修の利点であろう。

しかし、これは好ましくない考えでもおこりえる。
能動的に読書や受講を行うことは「興味のあるところ」へ偏るものである。それは好ましくないことが更に肯定され、強化され、バランスを失う危険がある。

「我が意を得たり」は嬉しく、自信につながるが、危険もある。
目を閉じると、自分が真っ直ぐに立てているのか分からなくなるように、自信が目を覆い見えなくなることもある。気をつけていきたい。


文章力の基本には「短く、シンプルに表現せよ」と書かれていました。
です・ます調をやめて書きましたので、「どうした」と思う方もいるかもしれません。今後も文章が揺れ、安定しないかもしれませんが、ご容赦ください。

お読みくださりありがとうございます。


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