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【短編】『ケモノ』

2ヶ月前に、定年退職で30年以上勤めた会社を辞めた私は、暇を持て余していた。
未だに会社に通っていた頃の習慣が抜けきれず、朝5時前に目が覚めてしまう。
これといった趣味を持たない私は、日中、家に居ても何をしていいか解らず、家族に邪魔者扱いされるのも癪なので、仕方なく自転車に乗って、家の近くを散策する様になった。

今まで通勤で乗っていた車とは違い、自転車で移動するのは自然を感じられて気持ちが良い。
特に私の住んでいる田舎町では、これから四季の移ろいを感じられる事だろう。
 
その日、私はいつもと同じく、朝5時前に起き、新たな習慣となりつつある軽い運動をする為、自宅から自転車で10分程の場所にある、森に囲まれた野球場に向かった。

野球場に着いた私は自転車を止めて、誰もいないグランドへと入っていった。
このだだっ広い空間を独り占めして体を動かすのは、何とも言えず気持ちが良いものだ。
私は、マウンド付近で外野方向を向いて、一人黙々と運動を始めた。

その私の目の端に異物が映った。
ライト側の端っこに、何かタイヤの様な黒い物が置いてあるのだ。

なんだろうか?さっきまでは無かった気がするのだが...単に見えてなかっただけだろうか..

少し気になった私は、その方向に向かって足を進めた。

ある程度の距離になると、それが動物である事が判った。
犬が寝ているのだろうか?
私は更に足を進め、近くまで寄ってみた。
やはり犬の様だ。

触れられる距離まで来た私は、何か違和感を感じた。

犬ではないのか?もしかして狐か?いや、狐とは何か違う気がする。
私は覗き込む様に、その生物をよく観察してみた。
胴体は黒と茶色で、普通の中型犬の様だが、顔が何とも言えない違和感を感じさせるのだ。

動物というよりは、人間に近い様な...
いや、人間と動物の間くらいの感じか..

なんなのだろう、一体..

何とも言えない気持ちの悪さを感じながらも、私は手で、その生物の体を揺すってみた。
ねっとりとした触感のそれは、ゼリーの様にゆっくりと揺れた。
誰かの作り物だろうか?それにしては余りにもリアルな気がするのだが...
臭いも動物特有のそれだった。
少し強く揺すってみた。しかし、それは無反応でゆっくりと揺れるだけだった。
口から舌が少し出ている。

死んでいる様だ...
これが、本物の生物であったらの話だが..

この生物に対する違和感は消えないままだが、いずれにしても、このまま放置しておくわけにはいかないだろう。
時間だけはたっぷりある。
私は、この生物、いや、物体を埋める為の道具を家に取りに行くため自転車に戻った。

どこか釈然としないまま、自転車で自宅に戻った私は、物置から大きいスコップと、ゴミ袋、軍手を持って、再び自転車で野球場へと向かった。

野球場に着き、自転車を止めた私は、あの物体がうずくまる方向へ目を向けた。

それは無かった..

私は荷物を置いて、その場所まで走った。

おかしい..あれがうずくまっていた場所には、何も無かった..

数十分の間に誰かが動かした?無いとは言えなくはないが..
もしかして、まだ生きていて、寝ているだけだったのだろうか?
いや、かなり強く揺すってみたはずなのだが...生きている動物なら、何らかの反応を示すはずだ...

やはり誰かが造って、イタズラで置いていたのだろうか?
しかし、あの臭いといい、口からでた舌のリアルな感じといい、とてもじゃないが作り物とは思えなかった。

そこには何かがあった痕跡も無かった..

狐に化かされた?
思ってから、声に出して笑ってしまった。そんな江戸時代じゃあるまいし..

突如、私の頭に昔に観た、公園にあった人の死体が忽然と消えてしまうという、不条理な内容の映画が浮かんできた。
確か、あの映画は、なぜ死体が消えたのか、きちんとした説明もなく終わってしまったはずだ。

遥か昔の朧げな記憶。タイトルは...
何だったろうか..思い出せない。

私は、歳を取ったものだと自嘲気味になりながら、自転車に乗り、自宅へと向かった。

【了】


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