入浴について(風呂キャンセル考)

風呂キャンセル界隈、という言葉が話題になった。
(本件は比較的わかりやすくはあるものの)インターネットの言葉の出所は不確かなので、新しい言葉は定義づけされることなくふわふわと運用されていく。誤用された「蛙化現象」が良い例だ。ここではまず語の定義から考えていきたい。

「風呂キャンセル界隈」ということで、文字通り読めば風呂に入らない人々のことを指すのはわかるが、「キャンセル」という言い方が特徴的である。このフックが話題性を担保しているように思われる。キャンセルというのは、既にあるものを打ち消す場合にしか使えない。もっと言えば、予約された状態(reserved) から取り消した状態(cancelled)に変化させることをキャンセルと言うのではないか。
すなわちこれは、風呂に元々入るということが前提となっているにも拘らず風呂に入らない不埒な輩だと自称していることになる。

そもそも風呂に毎日入るほうが世界的に見ればおかしいし、恵まれている。風呂なしの家に住んでいればキャンセル以前に銭湯へ支払う金額を勘定するだろうし、そうでなくてもガス代電気代水道代と気にすることは多岐に亘る。それなのに風呂に毎日入らなくてはならないと決めつけているのは、間違いなく風呂キャンセル界隈、彼ら自身なのである。より正確にいえば、風呂に毎日入らなくてはならないと考えている固定観念(理想)と毎日は入浴できない自分自身(現実)との乖離に苦しんでいる人々の集まりなのである。

成程簡単な話でした。風呂キャンセル界隈でなくなるためには、風呂に毎日入らなくてはならないという固定観念を捨てるところからはじまるのです。何も社会通念に反せと言っているわけではありません。まずあなたの思っている「常識」が本当に常識であるのかに疑義を呈するほうが、生活に役立つということを申し上げたまでです。

こんなことを書いてしまうと、恐らくたくさんの批判的な質問が寄せられることでしょう。

たとえば、
「電車で老人に席を譲らなければならないというのも固定観念なのですか?」
とか。半ば社会一般で共有されているマナーでありますから、常識を疑えという範疇からははみ出してしまいますが、だからといって従う必要はありません……というのが私の回答。

そうしたら、
「では法律ならば確実に守らなければならないのですか? 車の来ない信号で待ち続けるべきだと思いますか?」
と返ってくる。悪法もまた法なりと言って死ぬつもりは毛頭ないけれども、当然法律は守るに越したことはありませんね。しかし法律だから正しいという理屈は通りません。全ての法律が正しいのならば全ての国や地域で同じ法律が採用されているはずなのでは? と感じます。
さらに踏み込んで答えると、車の来ない信号で待ち続けることにあなたが極度の苛立ちを覚えて、それで電柱を壊したり、そのへんにいた蛙を踏み潰したり、帰宅したら家族に当たり散らしたりしてしまうのであれば、車の来ない信号は無視しても構わないと思います。これはつまり法律がどの程度重要かということで、反対に遵法意識が高すぎるあまり信号無視を一度したばかりに自死を選ぶような方は、無視しないほうがよろしいとなりますね。と、こんな具合。

すると、
「人を殺してはいけないというのはどこの国の法律でも定められていますが、これはどうしても守らなければならないのでしょうか?」
と尋ねられるやもしれませぬ。しかし君は同じように法律に定められた殺人を見落としてはいませんか。戦争、死刑、安楽死などは合法的に定められた殺人で、これはともすると偶発的な殺人よりも余程たちが悪い可能性すらあります。
適法だ、と決められてしまえばそれに対する疑義の声は中々上がりませんよ。

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