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体験を通して、「腑に落ちる」を探索する - 「もうひとつの臓器」七連続鑑賞会 -

先日コクヨさんを訪問する機会があり、その時に以下のフライヤーを見て、ヨコク研究所という名のリサーチ&ラボ機関があることを知りました。

フライヤーに描かれていたのは熊と蛙の間のような動物と、「もうひとつの臓器」というテキスト。

なんだかひかれるフライヤー…

気になってサイトを見てみたら、こんな文章が紡がれていました。

GRASP  “食べるように理解する技術”のプロトタイピング

日々巻き起こるさまざまな事象に対して、“食べるように理解する技術”のあり方を探るヨコク研究所 + MUESUM + 吉勝制作所の活動〈GRASP〉。「全体を掴む」「腑に落とす」「採集する」を手がかりに、「リサーチ手法のプロトタイピング」を実験・実践しています。

2022年春のプロジェクト立ち上げから約1年。探索的な議論からその先へと向かうアイデアと協働の可能性を見出し、山形の野山や品川の街中における採集を通してさまざまなモノたち(石、きのこ、音、テクスチャ、色、言葉、構え、視点……)を拾い上げ、咀嚼してきました。それらを素材に、GRASPの活動理念と過程を象徴する、超短編アニメーション映画『Digest The World もうひとつの臓器』を制作。この6月27日(火)に「7連続鑑賞会」というかたちでお披露目します。

〈開催予告〉超短編アニメーション映画 『Digest The World もうひとつの臓器』7連続鑑賞会

なんとなく「桑沢デザイン研究所の基礎造形で学んだことに近いかも?」と感じ、上映会に参加してみました。

その体験がとても味わい深かったのと、今の気持ちを忘れたくなかったので、文章にしてみます。

上映開始前の不安と共に、クッキーを味わう

会場に着くと、袋1セットと「18:50になったら、中にある指示書を見て、クッキーを食べてみてください」というメッセージをもらいました。

ちなみに書いてあった指示書はこちら。

食べている自分の姿を鏡にうつして、その鏡に向き合いながら食べてみよう

鏡がなかったので、スマホで代用

手を挙げながら食べる人がいたり、スキップしながら食べる人がいたり…(笑)。

不思議な空間&空気で不安はあったものの、クッキーはハーブの香りがして、美味しかったです。

7回連続で同じ映像を見るという体験

そうこうしているうちに、上映会のイントロダクションがスタート。

このプロジェクトの背景にある考えや、このプロジェクトの参画者の方のご紹介があり、「もうひとつの臓器」の映像(4分半)を見ました。

まずは「まっさらな気持ち」で。

映像を見た後は、毎回コクヨさんの野帳ノートに「気づいたこと」「気になったこと」「思い出したこと」「わからなくなったこと」を書き込んでいきます。

書いているときは、品川で採取した音声が流れます

2回目は、美しいポタージュを飲んだ後に鑑賞。

大変美味しかったです
ポタージュが今自分の胃袋にどんな感じにあるのかも、描きました

3回目は7分間の暗闇を共にした後に鑑賞。
あまりの暗闇で、寝てしまいそうでしたw

4回目は、本映像に登場する小物(?)をクッキーにし、それを食べながら見ました。クッキーのクオリティがすごい…!

食べるのがもったいない美しさ
それぞれ生地の味が異なりました 左のカレー味のクッキーがお気に入り

そして5回目は、この映像にアテレコ(!)をしました。
参加者それぞれにタイムラインと何の音を出すかが割り当てられます。
一発撮りな上、まったく知らないその場にいる方と力を合わせて収録します。

ここで、参加している場の皆さんとの一体感がぐっと出ました。
なんとなく、空気が柔らかくなったような。

指示がちゃんと把握できず、普通にナレーションしちゃいました(汗)

6回目はそのアテレコをした内容を見ました(即興で映像に音を合わせる方もすごいな…)。

「誰かが作った映像」から、一気に「自分が、自分たちが作った映像」になったと感じられ、上映する瞬間すごく緊張しました。

7回目は思い思いの場で。
youtubeに公開もされているので、そちらで見ることにしました。

ちなみに動画はこちら。


この場で私は何を「掴んだ」のか?

何度も野帳ノートに書き込んでいく中で、私は書く内容が徐々に絵から文章になっていきました。単に絵を描くのが面倒になっただけかもしれませんが(笑)。文章は感想よりも、問いや疑問が増えていった印象です。

また、今回のように前提を毎回変えて映像を見ていくと、同じ映像を見ても気になることが違ったり、見えないものが見えたり、また見えなくなったりもするな、と思いました。

こういった、何かを掴んだような気がしたり、気づかないままするりと抜け落ちるものがあったりしながら、その媒体に自分の身を寄せていくことが「腑に落ちる」ということなのかもしれない。

でも、一方でそんな意味付けをしなくてもいいのかもなと思う自分もいました。

6回目の映像を見終わったときの自分の野帳ノート 
「私たちはどこまで目的から自由でいられるのか」
「そもそも目的から自由でいる必要なんかないのか」と書きました

最後に、「食の指令」なるカードをもらいました。
なんだか結婚式のプチギフトみたい。
私はトイレのその後に想いを馳せることになりました(笑)。

んん~~っ。確かにどうなってるんだろう…


そこに確かにあるけれど、まだ出会えていない「リサーチ」の可能性

今回の場に参加して、ふと人類学者の比嘉夏子さんの記事を思い出しました。

タイトルがキャッチーで、そちらに目が行ってしまいそうですが、私が好きな文章はここ。

「データを分析する」というとまるで知的でスマートな作業をしているかのように思われるかもしれませんが、人間というものを特に定性的に、全体的に扱う限りにおいて、実のところそれは限りなく素朴で身体的で、時として自分の感覚や価値観さえ揺さぶられるような、かなりタフな作業なのです。

それは客観的でクールなデータの分析とは程遠い、全身全霊で行う他者との対話なのです。

「わからなさ」を手放さなければ、わかる瞬間がやってくる
~省略~
「わからなさ」を即座に手放さないこと。一定の時間をかけてそれらに対峙すること。そのようにして向き合った「わからなさ」は、やがて他の知見と重なりあい別の形を取ることで、あるいは分析者である私たちのものの見方が変容していくことで、もしかすると数週間後に、あるいは数ヶ月後にふと「わかる」瞬間へと変わるかもしれません。またたとえそれが永遠にわからないままなのだとしても、その状態を無かったことにするのではなく、きちんと向き合っておくことが重要なのだと思います。

何かを「わかる」ことは私にとってとても難しいことで、「わかる」と思ったとしてもすぐに「わからない」がやってくるなと感じています。

それでもなお「わかりたい」という気持ちをもって探索的に調べていく際、自分がまだ出会っていないやり方もあるのだろうなと思った夜でした。

*「もうひとつの臓器」に関する詳細情報は、以下からどうぞ。


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