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奈良に住むという選択⑥藤原京という都

日本で最初に本格的な都が築かれたのは、藤原京というところです。

現在の奈良県 橿原市にあって、その規模は次の平城京を凌ぐと言われています。

藤原京は、都の中央に大事な部分、天皇のお住まいや政治の場所があったとされます。

当時の日本は中国から色々学んで、都市設計も参考にしたと考えられるのですが、実際に中国にこういう形の都はなかったそうですな!

ただ儒教の『周礼』という書物には載っているそうで、これを見て作られたのではないか、という説があります。

でも次に平城京では、北に主要部を置く形にあらためられている。

だったら最初から北を主にした形にすれば良かったんじゃね?

せっかくいっぱい工事して都作ったのに、もったいないじゃないかーと思うのですが、当時としては「主要部を真ん中に置く『周礼』型を採用するのだ!という明確な意思があったと考えられます。

そこには、藤原京という場所の、立地の問題がありました。

藤原京は、大和三山と呼ばれるお山があります。

天香具山 耳成山 畝傍山。 どれも古事記などにも登場する聖なる山です。 藤原京に住んだ人々も、日々眺め、祭祀をし、憧れと尊敬を持って大切にしてきた大事なお山です。

このお山が、藤原京の内部に位置しています。 お山が都の内部にあったら、道は引きにくいし、色々不便だったことでしょう。 でも。それでもどうしても、大和三山とともにある都でありたいと思った… のかなあと思います。

でもそうなると、困ったことがありました。 地形的に南が高く北が低いのです。 もっと北に都を設置すればまだ平たい土地があるのですが、大和三山からはずれてしまう。

そこで宮城を真ん中に置くことにした。 北が中心になると、朱雀門を置き朱雀門大路を敷き、羅城門を設置するとどこが正面かくっきりするけれど、真ん中が中心部だったらどこからでも入れるから、どこが正面か分かりにくい。

当時のメインルートは、難波から大和川に沿って桜井あたりで上陸し、南西へ向かい藤原京には、北の方から入ってくるルートです。 外国使節団が北から入ってくる。

これは天子(天皇)が北に座り南を見るという当時の思想にそぐわない。 そうすると真ん中に中心があるというのは、都合が良いわけです。

えっ 国の主人がいる場所(北)から都へ入るの?と思いきや、ふっふっふっ 我が国は周礼を参考に、中枢は真ん中にあるのですよー 北を通り道にしても、別に天皇の権威を損ねているわけではないのですよー というわけです。

しかし、いよいよこの藤原京を捨てて、平城京という新しい都を造る時がきました。その中心的な人物こそ、藤原不比等です。

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