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奈良に住むという選択⑧みんな大好き♡藤原不比等

平城京遷都がなされた710年、聖武天皇はまだ10才でした。

いわゆる帝王学は受けていたでしょうけど、この時点では「天皇になる、ゼッタイなれる!」かどうかは分からなかったと思います。

そしてこの時、平城京の中心たる大極殿もまだできていませんでした。

まだ都が完成していない段階で遷都したわけです。

完成するのを待っていたら何年もかかる…からでしょうか。古代の人は見切り発車タイプだったのでしょうか^^;

遷都から5年後、715年、元旦の挨拶をする「朝賀」という儀式にて大極殿の記述が出てきますので、この前くらいに完成したのでしょう。

そして、この朝賀で、聖武天皇が登場します。

皇太子として初めて、公式の場に出たのです。

藤原不比等はこの5年後に死にます。

聖武天皇の祖母である元明天皇、伯母でありのちに天皇になる元正天皇、その他色んな人達がが、聖武天皇の公式デビューを見守ったでしょうが、藤原不比等も深い感慨を覚えていたのではないでしょうか。

不比等はその人生を捧げて、律令の制定と平城京遷都へ邁進してきました。

その時、彼の頭の中にあったのは、聖武天皇の父・文武天皇が国をおさめる姿でしょう。

藤原不比等という人について、彼のことがわかる資料はほぼありません。『日本書紀』という国の歴史書の編纂にて、藤原氏が自分たちのいいように書いたのだ~不比等の陰謀だ~というような言葉を時々見かけるのですが、不比等の陰謀が渦巻いているのなら、もっと不比等礼賛☆不比等パネエな記事があってもいいと思います。

でも、藤原不比等のことが単独で書かれているものはないし、名前がちょっこっと出てくるだけ。

のちに光明皇后が、東大寺に宝物を喜捨して、それが正倉院の宝物となりますが、その中に不比等の書いた書があったようです。
「私のパパが書いた書が、私にとって一番の宝物♡」
と光明皇后が言ってるくらいですから、娘に優しい…そして娘が尊敬する偉大な人物だったのかもしれません。

藤原不比等という人は、実際どんな人物だったのかはよくわからないのです。

でも、不比等が書いた漢詩が残っていて『懐風藻』という本に載っています。七夕に歌った詩とかあるのですが、お正月に歌ったというのがあります。

そこに表現されているのは、天皇讃歌。

天皇が素晴らしいから、この世は素晴らしい。世の中がそれもこれも天皇に徳があるからだ!という内容です。

この時の天皇は文武天皇。聖武天皇のパパです。

この人は若くして天皇になり、若くして亡くなってしまいます。そして文武天皇自身も、そのパパが早くに亡くなっています。

不比等は政治のパートナーというだけなく、ちょっと父親っぽかったのかなあと思ったりもします。

不比等もまた、文武天皇を、子供のように慈しみ支えたのではないでしょうか。その文武天皇が死んでしまった。

彼が残した遺児、聖武天皇。彼を即位させ、立派な都に君臨させるのだ~ そういう意識をもって、平城京造りに邁進していった。

そう考えると、聖武天皇の公式デビューは、不比等の夢の一部が叶った瞬間かも。

不比等が万感の思いでこの朝賀を見ていたとしたら、こちらの胸にもせまってくるものがあるのです(ToT)


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