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両A面シングルになりたい話。


もうタイトルから「??」って感じですね。
歌でも出すのか。
出しません。


CDにはA面とB面があって、私の言葉で説明すると、A面はそのCDの表題曲で、ドラマ主題歌に採用されたり、テレビ番組で頻繫に披露されたりと、有名な曲のイメージ。一方でB面は今でいうカップリングのことだと思うので、テレビではあまり披露されることがなかったり、そのCDを買った(且つ、興味を持って表題曲以降の曲もちゃんと聞いた)人しか認知していないイメージ。いわゆる”隠れた名曲”はB面なことが多いと思う。SMAPのオレンジとか。
そして”両A面”は表題曲が2曲入っているもの。例えば、、、を考えたけど万人がわかりそうなものがパッと出てこなかった。でも、読んでる方皆さん大体イメージ湧いていますよね、、、?



最近、自分の二面性のようなものを感じることが多くて。友達とバカして遊ぶ自分と、自分の心に耳をしっかり傾けて内省する自分。
でも、どちらも取り繕った私じゃなくて、本当の私。どっちの自分でいても気疲れしたりしないし、どちらの姿も本来の自分として存在している。



つい先日、大学の友人と県内旅行に出かけた。(gotoトラベル様様でした。。。)普段から仲良くしている”いつメン”との旅行で、なんっっにも気兼ねなく遊んだ一泊二日は、めちゃくちゃ楽しかった。みんな自由奔放で個性爆発な人たちの集まりで、子ども心を忘れないとはまさにこのことって感じの集合体。
朝食が朝8時からってわかっているのに朝3時半までしゃべり遊び、チェックアウト後は気づいたらバラバラに行動していて、最後みんなで一緒に帰れれば誰が何をしてても気にしない自由ぶり。
ちなみに普段は誰かの家で月2・3回集まって遊ぶことが多くて、大体朝までコース。大学生っぽいですよね。

一方で最近の私はさとのば大学を中心に自分自身と対話する時間がとても多くて、真面目モード、というか、とにかく”自分はどういたい?”とか”ほしい未来は何だろう?”とかモヤモヤぐるぐる考える日々を送っている。
さとのば大学にはさまざまな年齢層・バックグラウンドを持つ人が集まっているのでワークなどでじっくり話す時間はとても充実していて、講義もハッとさせられる言葉に出会ったりと、とにかく学び・気づきが多い。入学を決意した数ヶ月前の自分を褒めたたえたい。


大学の友人と過ごしている私と、自分自身としっかり向き合っている私は、全く違う顔をしていると思う。
考えていることの根底はきっと同じかもしれないけど、発する言葉やその言葉の重みみたいなものはきっと全然違うんだと思う。
でも、どっちもちゃんと”私”。
どちらの場にも、猫を被った私はいない。

でも、大学の友人からは”さとのば大学にいる私”のイメージは全く湧かないと思うし、逆も然り。
そして私自身も、大学の友人と普段しているようなくだらない話をさとのば大学の人としてみようってなったらちょっと緊張しちゃうなと感じていたり、これまた逆も然り。むしろ逆の場合(さとのば大学のような話を、大学の友人とする)はできないな、、と感じている。なんで?って言われると難しいけど、、、なんとなく越えちゃいけない一線を越えてしまうような感覚があるのかな。少なくとも私自身は”私の深い部分”に彼らが入ってくることにちょっと抵抗心がある。

どちらも本当の自分でありながら、関わる立場・環境によって周囲の人からは全然違うイメージを持たれているんじゃないかなと感じている。

でも、何度も書いているように、どちらもまぎれもない本当の自分。
なのにどうしてこんなに対極なんだろう。
対極の自分を見せることに抵抗があるんだろう。

友人と旅行に行ったとき、妙な開放感を感じた。
妙なって言うと居心地悪そうに感じるけど、全然そんなことはなくて。
心の曇り空が急に快晴になった感覚がした。
さとのば大学にいるときの私の心が曇り空だって意味でもないんだけど、、。
とにかく、すごくスッキリした2日間だった。心が一気に軽くなっていたのがわかった。この感覚をうまく言葉にできない。

その時にふと気づいた。
たぶん、”私のことをその人(たち)がどこから見ているか”なんだろうなと。そして、私は求められている私の見え方に適応するようにそれなりに振る舞ってきたんじゃないかなと。
そしてそれを表す言葉として、ピンと来たのが”A面”と”B面”。

大学にいる私とか、いわゆる日常の私が”A面の私”。
今のご時世的な感じでいうと、今までオフラインで見せてきた私は基本的にA面なんだと思う。
今まで大学というか、私と関わってきたほぼ全ての人が見てきたのがA面。表題曲な私。外見・性格全部含めた、本当の私。
一方で、さとのば大学の場みたいに自分自身としっかり向き合って内省をしている私は”B面の私”。日常的に関わっているだけでは見えない、奥深くを開放している私。
B面の私は自分自身にとってちょっと特別な存在で、弱かったり、かっこ悪かったりする自分をA面よりももう少し開示している感覚。自分自身の中にある深い部分を自分でもしっかり見つめながら、見てもらおうとしている。


A面もB面も同じアーティストの曲。アーティスト自身は変わっていない。
でも、A面とはガラッと雰囲気が変わった曲がB面に収録されていたり、B面の曲を聴いてうわー、こんな曲も歌うのか!って思ったり、「カップリング曲では新たな一面を見ることができます」なんて紹介があったり。
例えば、ドラマ主題歌であるA面の曲が好きで買った特別ファンではないアーティストのシングルのB面を聴くとき、ちょっとドキドキしませんか?新しい扉を開けるような感覚。タイトル・歌詞からだけじゃ想像つかない新しい世界に触れるような。私だけ?
あと、好きなアーティストの好きな曲をあげると、B面の曲が多かったりしませんか?(これ、ただ単に私の好みの問題なのかな、、)A面もそのアーティストらしくてもちろん好きなんだけど、B面はもっと表現したいものが現れてたりするように感じるんだよなあ。
、、私だけ、、、、、?

それを自分自身に置き換えても同じで、今の私はA面なのかB面なのかしっかり見極めている自分もいるし、その場その場でどこを見せればいいのかを判断してしまっているような気もする。マイナスな意味ではなく、その場その場で求められる部分を少しでも多く見せようとしてるのかな。その反動で必然的に反対側が相手から見え辛くなってしまっているような。
だからB面の私は初対面の人に向かってA面で関わる人に話したことも今後も話すこともないような話を突然することがある。しかもそれに対して自分自身でハードルを感じずに。
でもそれをA面で関わっている人に対してできるか?と言われたらたぶんできない。ドキドキするし、恥ずかしいし、なんか怖い。
それでもってB面の私は自分の弱いところを理解していて、理解しようとしていて、私はこれが苦手、弱いところって結構開示しているような気がする。一方でA面の私はちょっと見栄っ張りだ。
つまり、より"らしさ"や本音が出ているのはB面。
でも、B面でいる時もそれはそれでA面が見え辛くて、B面で関わった人ほど「この人はどんな日常を過ごしているんだろう?周りにはどんな友達がいるんだろう?どんな景色が周りに広がっているんだろう?」って疑問がたくさん湧いて、プライベートが謎に包まれている感覚を覚えることがある。


そして、A面を聞いてきた人がB面を聞いたときに「こんなの歌うのか!意外!」ってなることって少なからずあると思う。
その「意外!」の先にあるものはポジティブだったり、ネガティブだったり、はたまた違う感情だったりとさまざまだと思うけど。
それもまた日常に置き換えることができて、普段遊んでいる友達が急に真面目な話をしだして「そんなこと考えてたの!?」ってなる瞬間ってあると思う。ドラマとかでも目にしたことがあるシーンのような。
そういった”意外性”と戦っている自分がいるのはたしかで、「意外!」って思われるのがちょっと怖い。それがたとえポジティブな意味を持つものだとしても。最近自分自身で気づいたのは、たぶん私はすごくレッテルに囚われて生きている。レッテルのことを分厚い厚紙を強力な接着剤で貼り付けられているようなものとして捉えていて、だからそれを剥ぐのはすごく勇気のいることだし、時には痛みも伴う。だからなるべくはがさなくてもいいように生きている。
私は私らしくっていうけど、誰のための”私らしく”なんだ?
他人から見た”私”に合わせていくことが気づいたら”私らしい”になっていて、そこには”本当の私”とかけ離れたものがあったりするんじゃないのか?誰のために”私らしく”生きている?”私らしく”だもん。自分のためでありたい。自問自答を繰り返す。


何が言いたいかっていうと、どちらか一方しか見せていない/見えていない状態にモヤモヤがちょっとあるような感じ(結局言いたいことがまとまってない)。
ああー、まだモヤモヤが言語化できていない。


そして、心のどこかには、A面もB面もしっかり"私"として見てほしいという感覚が眠っている。
これが、"両A面シングルになりたい"だ。
A面もB面も本当の私であるにも関わらず、どちらか一方しか見せることができていないような感覚。
そうじゃなくて、どちらの私も同じくらい対等に見て欲しくて、どちらの私であってもそれが私なんだと、受け入れてほしい。
どっちの私も、"表題曲の私"でいたい。だから"両A面"。
同じアーティストなんだから、好きにならなくてもいいからどっちも聞いてほしいんだ。


旅行の時、妙な開放感を感じたのは、きっと、最近B面の私でいる時間が長すぎて(体調不良だったり用事が重なったりしてあまり友達と遊べていなかった)、A面の私を知らず知らずのうちにないがしろにしていたからだと思う。
友達と会ったことでA面を解禁できて、B面を背負いすぎて重くなってしまっていた心がちょっと開放されたんだと思う。バランスを少し失っていた。
A面もB面も本当の私なのに、なぜか片方の私を勝手にしまいこんでしまっていたみたいだ。


そして、それと同時に、ふと友達のB面がちょっと見てみたいな、と感じた。自分のB面も、ちょっと見せてもいいかもな、と思った。
なんで?なんででしょう。私にもよくわからない。そこが"妙"だったポイントなのかも。

いつもくだらないことばっかりして毎度毎度飽きずに遊んでいる私たちだけど、それぞれが本当に思っていることとか、将来のこととか、欲しい未来とか、"B面の話"をしたことは1度もなかった。そんな話をしている姿も、全く想像つかない。
でも、ここまで仲良くしているからこそB面が見たくて、見たくない。見せたくて、見せたくない。葛藤する自分。
あとは、それぞれがそれぞれに就活をしてきて、以前に比べて"B面"についてそれぞれ考えていることが何かあるんだろうな、と薄っすら感じたからかもしれない。それは、普段の何気ない会話からそよ風のように感じとるように薄っすらとしているけど。
昨年まではそれぞれのより奥深くに何が眠ってて何を考えているんだろうとか考えたこともなかった。

話が脱線してるんだかまとまったままちゃんと進んでいるのかなんだかわからなくなり始めたところで両A面シングルの話に戻す。

最近、理想のパートナーってどんな人だろうとか(そういう話を聞くイベントにたまたま参加したから!!)、私が友達としたい青春ってどんなものかなとか、ぼんやり考えたりすることがあって、たぶんどちらも共通して"両A面の私でいられる場所を求めてる"っていうのが答えかなと思った。

あまり映画・ドラマを多く見るタイプではないので偏見込みかもしれないけど、青春モノの作品って、A面とB面がしっかりバランス取れていて、お互いそこを認め合っているような感覚ありませんか?
偏見込みです。違うよ!だったらごめんなさい、、
熱く語り合っていたり、本気の本音でぶつかる喧嘩があったり。いろんな葛藤がありながらも、それぞれをしっかりと尊重し合っているような。
そんなことができる関係を、求めているような気がする。
今のA面の私は、B面を見られることを少なからず恐れているし、見ることもたぶん恐れている。
でも、そこを越えてどちらも対等に開示できて、受け入れられる"両A面"で関われるようになったら、何か違う景色が見えるような気がしている。
ちなみに、今まで両A面で関われた人がいるか?と聞かれると、、。思いつくようなつかないような。

きっと、常に両A面の私でいたいっていうわけでもないんだけど(ややこしい)、もっと、信頼できる仲間に対して両A面でいられる私になりたいのかな。
たぶん、いつもいつも両A面でいたら、それはそれで疲れて潰れてしまう。今のA面、B面を操っている自分も大事なんだと思う。
片面しか見えない関係性じゃなくて、両面をしっかり尊重し合える関係。
A面とB面が自由に行き来できる関係性っていう表現が1番しっくりくるかもしれない。自由に行き来できつつ、どっちの私も拒まれたりせず受け入れてほしいから、両A面。

くだらないことして遊ぶ時間もあって、でもすごく熱く自分の思いを語れる時間もあって。
きっと、それが私の求めている両A面。
そんな自分を見せられるようになりたいし、見てほしいし、見た時に受け入れられるようになりたいと思う。


備忘録的に書きたかっただけなのに想定外の長さになってしまいました。
みなさんは、両A面な自分でいることができていますか?

お付き合いありがとうございました🍨

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