拉麺ポテチ都知事45「新たな戦後に遺す敬意」
相も変わらず、毎日のように都心を自転車を漕いでいる。井ノ頭通りを抜けて渋谷に向かうのが慣例だが、いつも見ていた店が空きテナントになってしまった。そして数多くの著名人の訃報。岸田総理も叫んだ「グレートリセット」という言葉を陰謀論だと考える人もいるかもしれないが、大なり小なりの世界的ご破算は必ず起こるはずだ。というか既にその過程なのだと肌感的にわかる。
そんななか、何人かの人に「小池はジャーナリストとして、その闇を暴くような活動をしないのか?」と聞かれた。確かに金と暇があったら、金持ち達や運び屋、企業や娼婦たちが集まるスイス・ダボス会議の参加者たちに突撃取材していたかもしれない。「金がない」という、この世で一番くだらない理由で行かないと選択するのは恥ずかしいことなのかもしれないが、経済的な理由で道を絶たれることは我が人生においては常である。同情するなら金をくれ。まじで。
それはさておき、私は記者としてリセットそのもの、もしくはリセット後の新たな戦後に古えの記録となる何かを刻むための仕事に励んでいる。その点で自分の活動に一定の価値があると信じたい。なぜ古えかといえば、今時の物事は最早40年で時代劇化するからにほかならない。それは80sヤンキーの抗争がドラマシリーズ化しているのを見れば明らかである。AIのスピード感に慣れた人類にとって、たかだか40年前の出来事はもはや古えだ。となれば2030年代に90年代のことなど暴れん坊将軍。そこに向けて、戦争体験者の如く当事者の発言を記録するのが私の使命なのだと思う。
驚くほどに彼らは口を閉ざしている。それは質問する者がいないからであり、彼ら自身も自分達の仕事の意味を軽んじているからではないだろうか。私見によれば、当欄で何度も書いた「開け!ポンキッキ」が「セサミストリート」をそのまま輸入した「おかあさんといっしょ」と一線を画し、日本語翻訳音楽を題材にしたことの理由は、ほぼほぼ失われてしまった。当時のことを知る人はスマホや携帯を持たないし、恐らく語る気もない。
一方で女性に対して侮蔑的だったチャーリー・パーカーやモーツァルトらは未だにキャンセル対象の外にいる。これは不思議な事だ。しかし彼らの偉大な仕事と比較したら劣るとはいえ、先行した名もなき音楽家やアーティストたちの素晴らしい功績は確かに存在し、それが我々の基礎だということは叫び続けなければいけない。それに自分もいずれそうなるのだから、彼らを疎かにすることは未来で自分を貶めるブーメランと成り得る。
「Jazz the New Chapter」などの海外ジャズメンに対するインタビューで素敵なのは先人へのリスペクトの強さだ。彼らは自分のルーツをきちんと把握しているか、捉えようとする。以前ONE OK ROCKのTaka氏が「アーティストをリスペクトしろ!」とMCで叫んでいたが、呼びかけて敬意が得られたら苦労はない。彼に申し訳ないが、まず自分が他人を尊敬しないことなしにそれは達成されない気がする。そして「文化盗用」問題で大概の結びとされるのも「リスペクトの有無」。確かに理屈としてはわかるが、ではどうしたらそのリスペクトは生まれ、相手に伝えることができるのだろう?
ところで、某有名ビジネス系インフルエンサーに取材した時の話。彼は音楽やダンスなどのカルチャーに興味を持っていた。だから私は西麻布の場末にある雑居ビルのてっぺんで「なぜあなたはフランク・シナトラの『マイウェイ』やビートルズ『レット・イット・ビー』を歌うのですか?」と尋ねたのである。それはお世辞にでも上手なものではなかった、私は彼のチャレンジ精神を称えたいと思ったのだ。しかし彼からの応答は冷たかった。「特にありません。好きでもないし、ただやりたかっただけ」。
なるほど。結果的にわかったのは彼の「一度きりの人生を謳歌したい」という体験主義だ。「どうせだったら色々と経験したい」という好奇心に操られている。だから彼にとって、自分が演奏する楽曲の裏側のバッハや平均律、ロックの成立、ブルースがUKに伝わったことなどの歴史は無用だ。彼の演奏には歴史の重厚性も、または音楽の美そのものへの恍惚さえもない。あるのは指や声帯の動きだけ。つまり真の空虚である。これこそが文化盗用に繋がるマインドかと悟った。
今が本当に新たな戦前だったら、もしかして戦中だったなら、必ずや戦後のようなキャンセルカルチャーの波が来る。もちろん世界にはたくさんの人がいて、歴史や答えは必ずしもひとつではない。それを理解できるほどには私も年齢を経た。でも、だからこそ、それを考え議論するための資料や言説は多い方がいい。そのために当事者の話や記事を残さなければいけないのだ。さもなければこの世からリスペクトがどんどん消えていくだけである。
もしかしたら、藤田嗣治のような社会的抹殺はもうないかもしれない。でも価値観の激変で忘れられるアーティストや関係者の功績を記録してリスペクトを保守せよ。そのような要請が私を突き動かす。最近も取材で素晴らしい先人が涙を流して語ってくれた。先人たちを盛者必衰と切り捨てるのは簡単である。でも単に敗者としてしまうには、我々は彼らから恩恵を受けすぎている。多分それは女性ビーバップ奏者に生みの親であるチャーリー・パーカー自身がキャンセルされる時、本当の問題として認知されるだろう。
未来の日本で文化に対する敬意があふれていてほしい。そのために私は記さなくてはいけない。そんなことを考えている。
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