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希望を抱く

こんにちは、浦田直也です。今回はTableauの浦田ではなく、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者としてのnoteです。
一般にnoteを含めSNSは、軸を決めてその軸に沿った発信をしたほうがフォロワー数が伸びやすいというセオリーがありますが、そんなセオリーはガン無視しての投稿となります。笑

2021年8月下旬のとある日曜日の礼拝行事で私がした話を共有したいと思います。以下、当日読み上げた原稿をほぼそのままコピペしています。

導入

私も「希望を抱く」というテーマでお話ししたいと思います。

突然ですが、皆さんに質問があります。自分は運が良いな~、と最近感じたことはありますか? どうですか? 聞き逃しちゃった方もいるかもしれないので、もう一度同じ質問をしますね。最近、自分は運が良いな~、と感じたことはありますか? どんなときにそれを感じましたか?

運が良いと思った人は心に何が浮かんでいますか? 家族がいること、健康であること、仕事や友人関係に恵まれていることに思いを馳せている方もいらっしゃるかもしれません。

父の病気

私が最近「運がいい」と思った出来事について紹介します。7月30日金曜日の朝7時のことです。浦田家の実家のLINEグループに母からこんなメッセージが届きました。

「お父さんは昨日の夜、胸が痛いと言って救急車を呼んで、医療センター入院する事になりました。心臓に問題ありで、狭心症か心筋梗塞になる手前の可能性。今日、カテーテルを体に入れて検査するそうです。問題あれば今日か明日手術するそうです。入院は最長で7日間になるかも⁈」

こんなメッセージです。これを聞くととても悪いニュースですが、なんで私が「運がいい」と思ったのか、後ほど皆さんもわかるのでこのまま話を聞いてください。

狭心症と心筋梗塞という病気の名前は聞いたことがあると思いますが、具体的にどんな病気かご存知でしょうか。

狭心症とは、心臓の筋肉に供給される酸素が不足するために胸に一時的な痛みや圧迫感が起きる病気です。心筋梗塞とは、心臓が動くための酸素を送る血管である冠動脈が完全に詰まった状態です。

さて、心筋梗塞という単語を見て私は父のことがとても心配になりました。何が起きてるんだろう?お父さんは大丈夫なのかな…? そんなことを考えているうち、当の本人からLINEがきました。「検査で何も無ければカテーテル手術で1時間で終わるよ。」

カテーテル手術は、カテーテルという細い管を使ってつまりかけた心臓の血管に小さな網を入れて広げる手術で、体への負担が少ないようです。それならばひとまず安心か、と思っていたその日のことです。母から電話がかかってきました。「家族を全員呼ぶようにお医者さんから言われたから、明日病院にこれる?」

それを聞いてまた父のことが心配になってきました。家族全員を呼ばなきゃいけないほどのことって何があるんだろう? まさか余命宣告? 治療法が見つからないんだろうか? 色々な考えが頭に浮かんでは消えていきました。

翌日となる7月31日の土曜日、お医者さんから話をきくために病院に行きました。そこで聞いたのはこんな話でした。

  • 心臓の3つの大きな血管のうち、1本が完全に詰まっていること。

  • 残り2本のどちらかが詰まったら心臓が止まってしまうこと。

  • カテーテル手術かバイパス手術かを選ぶ必要があること。

話を聞いたあとに、CCU(循環器疾患集中治療室)にいる父と話をしました。父にはいろいろなチューブが繋がれてて、心電図のようなものに繋がれた状態でした。父は眉間に皺を寄せながら、こう言いました。「こんなことになってしまって、最悪だ。」

それに対して、私はすかさずこう言いました。「もし最悪だったら今頃死んでるよ。今日は弟の引っ越しの手伝いの日だったんだから。」

そう、実は7月31日は浦田家の3男が引っ越す予定の日で、父はその手伝いをするはずでした。安静にしているときに胸の痛みを感じたからこそ、救急車を呼ぶ余裕もあったし、急性の劇的な発作にならなくて済みました。もし心臓に負担がかかる引っ越しの最中に、発作が起きていたら命はなかったかもしれません。

その後、父はバイパス手術を受けることを選択して、8月17日に6時間ほどの手術を受け、今は退院に向かってリハビリをしているところです。

私はこの一連の出来事について、「運がよかった」と思っています。

運と希望の関係

ところで、テーマは「希望を抱く」なのに、なんで運の話をしているんだろう?って思われた方もいらっしゃるかもしれません。

「運がいい」と思うことと「希望を抱くこと」の間にはどんな関係があるでしょうか。そもそも運という言葉と、希望という言葉の意味ってなんでしょうか? 時系列に照らし合わせながら整理するとわかりやすいです。

運という単語を辞書で引くとこんなふうに書いてあります。

「人の身の上にめぐりくる幸福・不幸を支配する、人間の意志を超越したはたらき。」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%81%8B/

つまり、人間の意思を超越したはたらきが幸福をもたしてくれた!と信じるときに「運がいい」と感じて、その逆に不幸が降りかかってきた!と信じるときに「運が悪い」と感じます。

明日も運がいいなー!とは言わないですよね。これまで運が良かった、今日も運がいいな、という表現は自然です。つまり自分で自覚する運というのは過去から現在にいたるまでに何を経験してきて、物事のどんな側面に目を向けてきたか、更にいうと今までの人生で何を信じてきたのか、をまとめたものなんです。

希望の方はというと、辞書にはこんなふうに書いてあります。

「①あることの実現をのぞみ願うこと。また、その願い。 ②将来に対する期待。また、明るい見通し。」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%8C%E6%9C%9B/#jn-53745

こちらは逆に、去年に希望を抱く、って言うと変ですよね。将来に希望を抱く、とか来年に希望を抱く、だとしっくりきます。つまり希望は現在から未来に対して何を信じているのか、をまとめたものです。

話を整理すると、過去から現在までに信じてきたことのまとめが「運の自己評価」で現在から未来にかけて信じていることが「希望」です。

荒れ野の旅への2つの異なる評価

さて、モルモン書(※1)からある同じ経験をした兄弟の言葉をご紹介します。1人は神様のことを信じていて、もう一方はそれを信じていませんでした。

兄はこう言いました。「我々は長年の間荒れ野をさまよってきた。そして、我々の妻は身重の体で身を粉にして働き、荒れ野で子を産み、ただ死ななかっただけであらゆる苦しみに遭った。妻たちは、このような苦難に遭うくらいなら、エルサレムを出る前に死んだほうがましだった。」(ニーファイ第一書 17章20節)

弟はこう言いました。「わたしたちは旅をしながら、多くの苦難を乗り越えていった。そして妻たちは荒れ野の中で子供を産んだ。そして主(神様)の祝福が大変豊かだったので、妻たちは荒れ野で生肉を食べて暮らしていたのに、子供に乳を十分飲ませ、しかもまことに男のように強かった。彼女たちはつぶやかずに旅に耐えるようになった。」 (ニーファイ第一書 17章1-2節)

いまご紹介したのは、預言者リーハイとともに自分の故郷であるエルサレムを出て荒れ野を旅していたレーマン&レムエルとニーファイの言葉です。全く同じ旅路を歩んでいたにも関わらず、兄のレーマンとレムエルは「このような苦難に遭うくらいなら、~死んだ方がましだった」と言い、弟のニーファイは「主の祝福が大変豊かだった」と言いました。

なぜ全く同じ経験をしていたにも関わらず、この兄弟の反応は正反対になったのでしょうか? ニーファイには信仰があった、というのはもちろんそうですが、具体的にニーファイは何を信じていたのでしょうか?

ニーファイは、過去の人生でたくさんの助けと導きを神様から受けてきたことを信じていました。将来に渡って神様が幸福をもたらしてくれることを信じていました。そして過去と未来の神様のはたらきを信じているからこそ、今受けている恵みにも目を向けることができたのです。

まとめ

外は暑くて熱中症になってしまいそうです。私の父は心臓の病気で命を落としそうでした。世の中ではコロナが猛威をふるっています。その一方で、私には住む家があります。父は病院に行く時間の余裕があり手術も成功しました。私は今も生きています。世の中には恵みと祝福が溢れています。

人間の意思を超越したはたらき、天のお父様(神様)が私達に現世で生活する機会を与えてくださったことを知っています。天のお父様と同じ喜びを得られる道を備えてくさったことを知っています。

このお話と証をイエス・キリストの御名によって分かち合います。アーメン。

※1 新約聖書・旧約聖書と並んでイエス・キリストの事を証する書物


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