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コーヒー屋はコーヒー屋じゃない

もはやコーヒー屋はコーヒー屋じゃない

一応みんな店名に「COFFEE」の文字を付けるが、それが何を意味するか。
それぞれの店にあるコンセプトによって変わるが、少なからず私はコーヒーを売りたい訳じゃない。

あくまでも、コミュニティを作る事なんだ。
偶然同じ場に居合わせた人たちが、
偶然同じコーヒー片手にしてしゃべってるだけなんだ。

あれ?
なんか店名に「COFFEE」って付けるの古臭くない?

品質に高くこだわりを持ち、フェアトレードを大切にしてる素晴らしい珈琲職人のお店も大好きで、それを求めるお客様も大好きだ。

私たちもその点はこだわりを持ち、
コーヒーのプロとしての意識を持っている。

だけどだ。要はそれじゃないんだ。

そんなのを感じさせてくれたのは、
子供達に向けて、コーヒー屋さんの授業をした事がキッカケだ。

コーヒーってね。果物の種なんだ。
それを育てる農家さんは海の向こうの、
遠い遠い国にいて、
収穫して選別して洗って乾かす人がいて、
綺麗な豆になったら袋に詰めて、
日本に船や飛行機で運ぶ人がいて、
日本に着いたら豆を捌く商社の人がいて、
豆を焼く焙煎士がいて、
ようやくコーヒー屋さんがコーヒーを作るんだ。

1杯のコーヒーができるまで、ザッと数千人が関わってるんだよ。
だから大切に作ろうね。

↑↑こんな内容

子供たちは意外にも、この背景にリスペクトの姿を出してくれて、
何より真剣に向き合おうとしてる目があった。

きっと海の向こうのコーヒー農家がこの目を見たら、喜ぶんだろうな。

我々は日本の館山でコーヒーを起点にコミュニティを作ろうとしているが、
もっと大元を辿ると海の向こうにあるコミュニティがあるから、我々の生活がある。

子供達の目からは、
すべて点と点が線になる瞬間を勉強させてもらった。

街やスーパーで会ったら、手振ってね。
うちの店、遊び来てね。


もはやコーヒー屋をコーヒー屋と呼ぶには勿体無い。
こんなに身近な存在であるコーヒーは、
背景にある物語が壮大であるからこそ、
私たちはコーヒーでしか表現できないコミュニティ作りがあるのだ。

コーヒー屋はコーヒー屋として名乗るのでなく、
全く別媒体の姿でコーヒーを提供する手段も、違和感無いだろう。

暮らしにこれほどまで根ざしたコーヒー。
そのコーヒーが飲める場は、1人として同じ人がいない。
1店舗あったら、その背景には大勢の同じ人じゃないお客さんが存在する。
だから人々はその場を大切にし、サードプレイスとして認識する。
それは大人も子供も一切関係ない。
なぜなら暮らしに根ざしてるからだ。

殴り書きになるが、
コーヒー屋はコーヒー屋じゃない。

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