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『人類の会話のための哲学』刊行記念トークイベントの振り返り~映画『悪は存在しない』への連想とともに

Introduction

2024年3月31日(日)に青山ブックセンター本店で開催された、朱喜哲さんと渡邉康太郎さんのトークイベント、『人類の会話のための哲学』刊行記念「〈人類の会話〉をデザインする」の振り返り。

『人類の会話のための哲学』は、朱さんの博士論文をもとにした書籍だけあり、内容はもちろん表紙の写真にまで重厚さがある。イベント前に一度、
書店で中身を見てみたが、難解な雰囲気を感じて実は購入を見送っていた。

個人的には、イベントに先立ち、2024年2月放送のNHK100分de名著で朱さんが解説を務めたリチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストおよび番組を視聴のうえでの参加だった。イベント直後に、朱さんが語る言葉をより深く理解したい思いから『人類の会話のための哲学』を購入し、また、朱さんの『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』とも絡めながら、印象に残った箇所をピックアップして整理したい。(ただし、『人類の会話のための哲学』は、やはり難解そうでまだ読み進められずにいる。)

総括

イベント前は、哲学の土俵に対して、デザインを生業とする渡邉さんがどのように乗り込んでいくのだろうかと妄想していた(本人は「びびってやってきた」と謙遜するが、そこに乗り込むかっこよさを感じる)。しかし、いざイベントが始まると、朱さんのマーケターとしての側面を皮切りに、人文知とビジネスの架橋というテーマで幕開けする展開となり、『人類の会話のための哲学』を未読であってもついていけそうな内容で一安心する。

朱さんから渡邉さんに向けて問いが投げかけられるシーンが多々あり、むしろそちらのほうが多かったかもしれないことも印象的。「コンテクストデザインにおける、n=1の流行との距離感は?」「言語化できないデザインへの取り組みはあるか?」「センスを乗り越えて言語で語るためには?」「世界を面白がるためのテクニックは?」など問いも多岐にわたる。一方、渡邉さんは、あくまでイベントのメインは朱さんであるとして、自身のコンテクストデザインについては、時間の関係もあり、あえて深入りした言及は避けていたように感じる。

100分de名著の裏話

朱さんから、100分de名著の裏話が語られる。次年度への番組継続が決まっている段階であるため、2月の放送はお試し枠であるとのこと。企画段階では、ローティのほかにジョン・ロールズも推していたというが、最終的には「トランプ現象の予言」というコピーが刺さり、ローティに決まったという。

朱さんと渡邉さんの出会い

朱さんと渡邉さんの出会いは、2019年元日にNHK Eテレで放送された「ニッポンのジレンマ」で、その収録では斎藤幸平さんも一緒だったという。どれだけ一瞬で爪痕を残すかを意識して、各々がひな壇芸人的に喋り散らしたという回顧が面白い。(どなたか、この放送のアーカイブなどを見られる方法をご存じであれば教えていただきたい。)

当時から、朱さんは渡邉さんに対して、人文知からビジネスへの一気通貫的な態度が新鮮と感じたと語る。

人文知とビジネスの結びつき

人文知とビジネスの結びつきが一つのテーマとなるなかで、朱さん・渡邉さんの両者において、前提となるアプローチの違いがあったように思う。もちろん違いがあることは悪いことではなく、違いがあるからこそコミュニケーションが成り立ち、会話が広がっていく。

朱さんは、マーケターの目線から、データ活用における倫理観の切り口で問題意識を語る。たとえば、スマートフォンの普及に伴い取得できるデータが増えた場合に、それをどこまで活用してよいのか。データ分析において気持ち悪さを感じたときに、現場の人間がそれを語る言葉を持っていないのではないか。そんな課題感から、ELSI(Ethical,Legal and Social Issues:倫理的・法的・社会的課題)のフレームワークに則った言葉を与えることが大事ではないかと指摘する。

その際に、マルクス・ガブリエルが説くCEO(Chief Ethics Officer:最高倫理責任者)のような「責任者」という役割だとやや大変なので、企業内弁護士を「インハウス・ロイヤー」と呼称するように、「インハウス・フィロソファー」という立ち位置で哲学者がビジネスに対して介入できるとよいのではと語る。個人の倫理観に頼るのではなく、倫理学や哲学の世界の語彙を生かせるのではないかという指摘。

一方、渡邉さんは、当初はビジネスのなかで人文知を生かせなかったが、ストーリー・ウィーヴィングの研修プログラムが転機になったと振り返る。研修という普段の業務とは独立した世界で、ロジックに対する感性をいかに言祝ぐかを考える際に、人文的な言葉を引用する楽しみを少しずつ足していったと語る。

このトークイベントのなかでも多分に織り交ぜられた領域横断的な人文知は、社会起点の外部からのアプローチではなく、個人や組織の内側からじわりと滲み出すようなアプローチだといえる。

具体と抽象のバランス感覚

マーケティングにおいて真実の瞬間(Moment of Truth)があるとする場合、それが発露するための"強い文脈"はどのように設計するのか、という話からの展開だったように思う。(個人的には、社会の"強い文脈"は設計するのではなく、すでにそこに存在しているものなのでは、と解釈している。)

「正しい言葉づかい」「語り直しと再記述」という朱さんらしいキーワードも織り込みながら、具体と抽象のバランス感覚について多面的に会話が交わされる。

渡邉さんの語る「具体」は、必ずしも「もの」に落とし込むことではなく、「もの」があったほうが、たまたまわかりやすいだけだという。この箇所も、もしかしたら朱さんとイメージが異なっていたのかもしれない。たとえば「つくるプロセスが大事」というスローガンだと抽象的すぎるので、その人なりの具体的な語彙による語りを引き出せないか、という試行があるという。

質疑応答のセッションで、この補助線が鮮やかに展開された場面が印象的だった。会場の参加者から「失敗や間違いとの向き合い方は?」という質問が寄せられた際、渡邉さんは「どれくらいのスケールの話をすればよいのか?」という問いを投げ返す。半分は回答に困ったために冗談めかした返しだったようにも思うが、スケールを絞って適度な具体性を持たせることで、より質問の意図にも沿ったクリアな回答につながるふるまいだった。

この質問に対する朱さんの回答もまた興味深く、会話の終焉という大事故を起こさないことが大事だという。接触事故やスピード違反などの小さな失敗によって、大きな失敗を避けることができるのではという指摘。運転のメタファーは、『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』でも多分に展開されているが、イベント後に本書を読んだことでようやくその意味合いが掴めたように思う。(しかしながら、個人的には青いカバーイラストを見た時、波を乗りこなすイメージを勝手に抱く誤読をしてしまっていたことを白状する。ちゃんと見れば、交通標識が立っていることに気がつく。)

映画『悪は存在しない』への連想

そんな折、「会話を続ける」というテーマを思い起こさせる映画を観た。濱口竜介監督の『悪は存在しない』である。ここからは、トークイベントの内容を離れ、朱さんやローティの書籍との連想を綴ろうと思う。(映画のネタバレにはならない範囲で、その内容にも触れる。)

公式サイトから、ストーリーの概要を引用する。

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

https://aku.incline.life/

この映画には、「会話」が印象的に取り上げられるシーンがいくつもある。

まずは、芸能事務所のメンバーである高橋と黛が、町民向けに説明会を開くシーン。結論ありきの説明会になっているのではないか、「持ち帰る」とされた質問が本当に検討されるのか、そもそも必要なメンバーが参加していないのではないか、などという指摘が町民側からは投げかけられるなか、建設的な意見交換ができるのであれば改めて説明会を開催しよう、と巧は会話の継続を切り出す。

また、高橋と黛が、グランピングのコンサルタントとオンラインでミーティングをするシーン。コンサルタントから一方的な要求を突きつけられ、さらには次のミーティングの時間だということで強制的に会話が終了する。論破とは違うが、これも会話が途切れてしまう一種の「事故」のケースだと思う。このようなシーンは、ビジネスの界隈では実はよく発生しているのではないか。

その後、高橋と黛が長野へ向かう車中でのシーン。2人だけの関係のなかで、互いの過去や言えない本音を明かしあう会話が繰り広げられる。説明会という公的・バザール的な空間では語ることのできない、一種の私的・クラブ的な空間でこその会話が繰り広げられるシーンといえる。

さらに範囲を拡張するのであれば、人類の会話に閉じず、鹿などの他の動物や、川などの自然といった、モア・ザン・ヒューマン的な相手との会話すらも描かれる映画である。

劇場へと向かう道中で『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』を読んでいたことから、勝手にそのレンズを通して鑑賞してしまっていたのかもしれないが、まさに「会話」というキーワードと呼応する映画だったと感じる。「言語哲学」の範疇には収まらないのかもしれないものの、言語を用いない自然との「会話」についても、人類が〈われわれ〉を拡張しながら継続すべき営みとなるのであろう。

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