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生徒家族の訃報、その時学校に寄り添える余裕はあるか?

こんにちは。先日、私が勤務する学校の生徒のご家族に不幸がありました。生徒の保護者が癌で亡くなったのです。教職員間のチャットでは校長からその連絡が入り、教職員がお悔やみの言葉を添えていました。

クラスメイトの保護者が癌だとわかった時

去年の冬頃のことでした。あるクラスの生徒の保護者が癌だと宣告されて、当該生徒はそのことについてクラスメイトに話をしました。残念ながら、腫瘍は悪性。先は長くないとの話でした。

死は誰にでも訪れます。しかし、その瞬間がまさか自分たちの保護者世代にこんなにも早くやってくるとは…子どもたちは困惑しているようでした。「そういう話は聞いたことがある」程度だった話が、まさかクラスメイトの家族に起こるなんて。

その話がクラスで共有されてから「自分たちに何かできないか」と子どもたちが動き出しました。クラスメイトが苦しんでいるのはわかった、でもそれだけで良いのか?これが子どもたちに生まれた「疑問」だったのです。

それから、彼らは癌に苦しむ人たちが多いという情報に辿り着きました。そして、病を患った人たちに必要な治療薬の開発には時間も費用もかかるということがわかり、彼らはクラスで「クラウドファウンディング」を始めました。担任の力を借りてページを立ち上げ、自分たちの保護者やその知り合い、教職員に「寄付」を募ったのです。

冬の寒い日の「短パンチャレンジ」

ある日、私が英語の授業で訪れた時、クラスの生徒たちの服装が気になりました。寒い冬の日にほぼ全員が素足に「短パン」もしくは「ミニスカート」を履いていて、しかもその多くは、自分の性別と逆の服を身につけていました。

「スカートって意外と寒いんだよ」
「弟の短パンを借りて履いてみた!」

彼らはこの取り組みを「短パンチャレンジ」と呼んでいました。この冬の1週間、毎日これらを身につけて学校に来ているとのこと。

「…何のために?寒いのに」と聞いた私に、複数名の生徒が教えてくれました。

「癌の人たちの苦しみはこんなもんじゃないんだよ」
「こうやって目立つ服装をしていると聞かれるんだよ、今みたいに。何でスカートを履いているんだい?って。そうしたらチャンス。クラウドファウンディングの話をするんだ。そして、QRコードを見せて、良かったら協力してくださいって」

なるほど。ちょっと目立った格好をするのは、クラウドファウンディングについて説明するきっかけを得るためだったのです。知恵のある子どもたちだなと思いました。そこで少額ながら寄付をすると、子どもたちはとても喜んでくれました。

集まった寄付金の額は…

最終的に、彼らの努力によって集まった寄付金は、確か€6500。今の日本円(€1=¥169)にして110万円にも及びました。これはすごい額です。彼らは子どもである自分たちにもアクションを起こせば、何かムーブメントを起こせると確信したようでした。

そして、きっと今回のことを通して、当該生徒もまた希望を抱くことができたのではないかと思います。私には、これだけ一緒に想いを寄せてくれるクラスメイトがいると。そして、そのクラスメイトの後ろ側にいる人たちの中にも、自分の境遇に支援の手を差し伸ばそうとしてくれている人たちがいると。

寄付をしてくれたのは実は保護者だけではなく、この話を紹介した先のご近所さん、保護者の友人など「想い」に共感してくれた人たちにも及びました。

学校に置かれた「故人を偲ぶ場所」

訃報が届いてから、校舎内には「故人を偲ぶ場所」が設置されました。家族との写真や、花、そして誰もがメッセージを残せるノートです。

「誰かの悲しみを、みんなで受け止める」

ひょっとしたら、こういったセンシティブなことは「オープンにしないこと」が好まれるかもしれません。でも、私の勤務校のスタンスは違います。もちろん家族の許可を取ってのことですが「悲しみを開放した先に、受け止めてくれる人たちがいることを知っておいて欲しい」と校長は言います。

そして、「誰かの悲しみを自分の悲しみとして請け負えること」ができる学校、社会であってほしいと願うからこそ、隠すのではなく「共に分け合えるコミュニティ」を作っていきたいと加えました。

とてもオランダらしい、力強い考え方だと感じます。そして、そのようなイニシアチブを取れる校長の人柄に、憧れさえ感じました。

「共に生きる」を体現できるか

「死」というのはとても残酷なものです。失った命にはもう二度と会うことができません。「人はいつか死ぬ」ことはわかっていても、実際にそれが起きた時、私たちは自分が自分でいられるかどうかもわかりません。

そんな時だからこそ、人がどん底に突き落とされ、絶望の淵に立たされる時だからこそ「あなたは1人ではない」とメッセージを送ることの重要さと、その強さを学んだような気がします。隣に座って肩を撫で、そっと寄り添う。「あなたは1人ではない」と伝える。優しく抱きしめて一緒に泣く。そのかたちは様々かもしれません。

悲しみに打ちひしがれた人を「そっとしておいてあげる」ことも大事でしょう。その一方で「もたれかかりたいと思った時にはその先の存在があること」を多くの人たちが伝えておくことも同じくらい大切かもしれません。その人のタイミングで、その人がそうしたいと思える人が選べることは、その人が立ちあがろうとする時に力になるのかもしれません。

ノートを見返した時、「こんなにもあなたの死を悼んでくれる人たちがいた」とか「私たちの悲しみに寄り添ってくれる人たちがいた」と思えることは、回復力を高めるかもしれません。「故人を偲ぶ場所」は、その時のための1つのオプションとして、そこに体現されているのだと感じました。

学校は「人生を通した学び」を得る場所として余白を残しているか?

学校は「学び」を得る場所です。でもその「学び」とは学業に関わることだけに留まりません。…ということを忘れがちな社会に偏り始めているかもしれません。それはオランダも同じかもしれない…と時々感じます。

誰かの想いに寄り添うことよりも、勉強ができることが優先される社会はとても虚しいもののように思えます。「そんなことよりも明日のテスト」と言わなければ生き残れない社会にどんな未来が待ち受けているのだろうとさえ思います。

親を失った子の気持ちに寄り添った子どもたちが、未来で同じ境遇の人の心に想いを寄せられるとしたら、それは今、ここでしっかりとそれを咀嚼したからなのかもしれません。

子どもたちの心には「点数よりももっと大事なもの」を残していきたい。そう思った出来事でした。


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