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違いを知り、認め合う。これからの清潔のルール

この文章は、パナソニックのナノイーXとnoteで開催する「#清潔のマイルール」の参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

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私は、衣食住の「食」に身を置いている人間だ。
「衣」や、「住」が専門の方も清潔とは切っても切れない関係性だと思うけれど、
こと、「食」という分野においては「命を守る」という重要な役割が、はるか昔から「清潔」にはある。
 
私たちは手拭きで手をぬぐってから、箸で食事をとる。
水で手を洗い、口をすすいでから、境内に入る。
 
そんな風に自分の身の回りの中でとくに他と一番多く距離が縮まる部位である「手」を洗い、清め、澄ます。
 
清潔、清める、澄ます、というテーマをについて、先日起こった一つのエピソードに交えて話したい。
 
私が友人に連れられて訪問したそこは、とある発酵食品の工房だった。
それはものすごく美味しいこだわりの味わいだという。
到着すると、軒先へ案内された。すると目に飛び込んできたのは、部屋の障子が8割破れたままになっていてぼろぼろ、子供たちは鼻に手を入れて、それをなんと口に運んでぱくぱくとしている様子だった。私にとっては少々衝撃的な光景で、多少の戸惑いをなだめながらも、その作り手さんのお話しを聞き、訪問の用事は無事に済んだ。場所を去った後も「いや、昭和初期の風景だったら普通のことだよ。普通のこと。」などと、自分の脳内で会話が続けられていた。
もちろん、工房は清潔に違いない。清潔でなかったら悪い菌が蔓延し、良い発酵食品なんて作れるはずがないから。
それは重々分かっていつつも、その破れっぱなしの障子と鼻垢を食べる子供たちの画を見て、私の豊かな想像力が悪い方向に働いてしまう。
そういうの、人間の心理としてあるものなんじゃないかと思う。
 
菌という目に見えないものが納豆や味噌、醤油や酒など、数えきれないほどの善行を行っている。一方で、菌という目に見えないものが、私たちの肺を冒して、時に死に至らしめる。
 
どちらも、「見えないもの」の仕業だ。
 
もう一つのエピソードを例えに話したい。想像してみて欲しい。どこかのお店に入った時、包丁や調理器具、調味料や皿なんかがごちゃごちゃと乱雑に置いてあるとする。ものの数は同じでも、もう一方のお店はシンメトリーに縦横きっちりと置かれているとする。人は、前者に対して、何か「悪い菌」が見えるわけではないのに、不快感を覚えて、後者に対して清潔感と安心を覚える。
きっと、前者に比べて後者は、「どこに何があるか」という情報処理が容易になるからじゃないかなと思う。それがある種、イコールで危険性がないと判断しやすくなり、安全性を感じ取るセンサーが働くのではないかな、と。

人が清潔不潔を感じる時、それは「命を守る」という動物的DNAに組み込まれたもので、まず視覚がそれをキャッチし、安全かそうでないかを判断しようとし、その後、嗅覚が臭いで判断、その後口に運ぶ物であれば舌という味覚というセンサーによって最終決断が下される。つまり視覚、嗅覚、味覚の順に、判断を下す。
 
だから、まず、視覚で清潔を判断されないと、口に運んではもらえない。
そこには、もちろん「知識」というフィルターがかかる。
納豆を見て、視覚的に「安全」と思う人はいないだろう。
幼少期に教わった「納豆というのは糸をひいてはいるが安全で、しかも健康に良い食べ物だ」という知識があり、そのフィルターがかかって、視覚、嗅覚、味覚とすり合わせを行っている。だから、日本人と外国人では、その「知識」「経験数」が異なるため、知ろうと思わないと、逆に教えてもらわないと知識不足によって安全か否かの判断を間違えて下してしまう事実も起きる。
二つ目のお店の例えの、ものの置き方がランダムかシンメトリーかという話に戻るが、もっと近い距離にいる人物は、こう言うかも知れない。
 
前者のランダムに置かれているお店は、実はアルコールスプレーマニアで、夜な夜なすべての器具をアルコール消毒しているんだよ、後者のシンメトリーに置かれたお店は実はすべての器具は買った当初のままにしていて埃だらけなんだよと。
そんなことはあるはずのないことだけど、万が一そんな内情を知る人がいたのなら、「距離」による安全、危険の判断というものも存在することがわかる。近い距離だからこそわかる、清潔と不潔の事実だ。
 
例えばパートナーが使ったストローでそのまま自分が飲み物を飲むのは良いけど、知らない人が口をつけたストローは不潔に感じるようなこと。それは、視覚、嗅覚、味覚、知識、その4つの中の4つ目の付属として追加される「距離」なのだと思う。パートナーの生活習慣をしっていて、健康状態を知っていて、なんなら今朝食べたものまで知っているからゆえ、人は「安全」と判断してストローに口をつける。
 
 
 
一つの大きな世界的なウイルス性の流行りものが起き、今、一番大きな問題は、それぞれの知識と経験、体の強さがあるという「個の違い」の理解に差があることだ。片方は目に見えないものに脅威を感じて、他者が自分と同じようにしていないことを許せない人。もう片方は、自分の免疫力を高める行動をすると決めて実行し、他を非難しない人。出来ることなら後者でありたい。
 
さまざまなトラブルがシリアスな事件に発展した事実もあるけれど、それは一旦脇へおき、
もっと私自身の小さな世界にフォーカスすると、清潔さは、食品そのものだけではなく、どんな服装を着た人物が運んでくるか?どんな表情で話をするか?というところにも及ぶんじゃないかと考えている。
食品以外のものにも、私は清潔さと美しさを求めたい。清潔というのは美しいものだ。
 
お店に並んだ調理道具や皿さえもお客様にとっての景色なら、人間も景色。
そんなことは当たり前だとしても、
人間の美しさは、持って生まれた体型や目が大きいとかいう、顔やからだの作りではなく、身につけた宝石の輝きで成り立つものでもなく、清潔さと笑顔が最大の美しさなのだと思う。こと、笑顔については、口元と目元にたずさえたほほえみが何にも勝るダイアモンドなのだと歳を重ねるごとに思う。笑顔は相手の安心を導き出すものでもある。笑顔で人は人を襲わないことから、笑顔を見ると人間はDNA的に安心安全を感じ、心地よさに結びつくのだろうか。
 
人生は優先順位だから、何を上位に持ってくるかだけど、
私は、「素朴な食」に清潔さと美しさを感じ、個それぞれの、そのものの輝きに清潔と美しさを感じ、空間的ユーモア、人的ユーモアに余白とゆとり、自分のテリトリーの広さと心地よさを感じる。
 
人と人との間でひとてま。私のお店はそう名づけた。
人と人との間には、視覚、嗅覚、味覚、知識があり、知ろうとすること、教えてあげることでその脅威が安心安全に変わることがあることを、一つの事実として心に入れておきたい、そんな風に思うのだった。
 


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#清潔のマイルール
 
 

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