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セミナー登壇中に気がついた 「働く」の生きたモデルに触れる意味

一昨日の9/21(火)、⬇こちらのセミナーにて登壇の機会をいただいた。

デュアルスクール(区域外就学制度)を利用して、親子で徳島に滞在した時の話をするために登壇した。閲覧者からの質問に答えた後に少々あまったので、スピーカー同士で互いに質疑応答。その際に自分で発した言葉から気づいた。

自分が話したこと

『徳島滞在中に何して遊びたい?』と聞かれても、息子は答えることができなかった。なぜなら、何があるのかも知らないし、何で遊べるか知らないから。
仕事についても同じで、知っている中でしか選ぶことができない。一つの会社で長く勤め上げるサラリーマンもいれば、昼と夜で仕事の違う個人事業主もいて、PC片手のパラレルワーカーもいれば、第一次産業のプロフェッショナルもいる。多様な働き方をする生きた大人が暮らしの中でそこら中にいると、将来への選択肢が豊かになり、自分にフィットするものを選び取ることができる。
いくら検索しても言葉自体を知らなければ調べられない。概念だけでは調べられない。だから、本を読むし勉強する意味がある。そして、実際に体をまるごとその場に入れてしまうのは、「知る」のに最もてっとり早い。

遊びは無限か?

子供達は遊ぶ時、自由に遊んでいるように見えるが、選択肢の中から選んで行動しているに過ぎない。あるいは既存の遊びの組み合わせや発展だ。0から生み出す訳ではない。ならば、選択肢が豊富にある者がその時々の気分や条件で自由自在に遊べるというわけだ。知識として遊びを知っているよりも、実際に体験した方が選択肢の質はあがる。

仕事についての考え方は、上下ではなくて左右があるだけのように思う。Aさんにとって最適だと思う会社がBさんにとって最適とは限らない。また、同じAさんでも生活環境が変われば、働き方も違和感が出てくるだろう。

選ばなかった皿

その時々で自らが選ばなかった選択肢が、開き直りや覚悟を支えてくれる。

「これしかない」ではなくて「これもある」
「あれをしなければならない」ではなくて「あれもあったらいい」
「それを続けるべきだ」ではなくて「それを続けると面白そう」

それくらいの心持ちで、人生を謳歌できるといいなあと思う。



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