「夜と霧」から学ぶ「意味づけするのは自分」ということの意味
ビィクトール・E・フランクルの「夜と霧」を読んだ。
(日本での初版は、1961年3月5日 訳:霜山徳爾氏)
この本を選んだきっかけは、
心理カウンセラー上野大照さんの心匠セラピスト養成講座でロゴセラピーについて学んで、自分なりに深めたいと思ったからだった。
フランクルについては、私が解説するまでもないと思う。
興味のある人は、ネットで検索してみて欲しい。
「起こった出来事に意味づけをするのは、あなた自身だ」と言い切るのは、難しい
ひとつの考え方に
「起こった出来事に意味はない」
「意味づけをするのは、自分自身だ」
というものがある。
確かに、そうだ。
と思う。
でも、抗えない、どうしようもない出来事が起こって、
苦悩の嵐の中に放り込まれている最中の人に対して、
「起こった出来事に意味づけをするのは、あなた自身だ」
と言い切ることは、難しいことのように感じていました。
第二次世界大戦下のドイツで、アウシュビッツを始めとする強制収容所で、何らかの価値を創造する自由を奪われ、体験する価値を奪われ、人として扱われる尊厳を奪われ、飢えと疲労と寒さと、無差別の死の恐怖、感情の鈍麻を経験してもなお、生きる目的を持ち続けた人たち(フランクル本人を含む)について書かれているところを読んで、やっとわかった気がする。
*霜山氏の訳文を難しそうと感じた方は、新版(池田香代子訳)の方が読みやすいかもしれません(私は新版を読んでいないのですが)。
私たちの日常に置き換えて、考えてみると
夜と霧に登場する、
いつ終わるとしれない強制収容所の生活、存在の無価値感を何度となく味わざるを得ない環境の中でも、なぜ、生きるのか、なんのために生きるのかを問い続け、人生の意味を見つけ出した人たちは、特別な精神力や忍耐力があったのかというと、そうではない。
第二次世界大戦下のドイツのホロコーストという状況は、本を読んで想像することはできても、じゃぁいったいどうやって、今の私たちの日常に置き換えるのか。
現実味が薄いようにも感じてしまいます。
でも、「起こった出来事に意味づけするのは、自分」という考え方は、私たちの日常に生かすことができる。
例えば、
「よく頑張ってるね」のひと言を
「あぁ、この人は、私のことをよく見てくれているんだな」と受け取ることもできれば、
「この人の言葉には、温かみが感じられない。嫌味だな」と受け取ることもできます。
私たちは、自分の意思で、どちらを選ぶこともできるのです。
仕事をしていると、
「こんなこと、やる意味あるのかな?」と感じることはよくあります。
誰かの言ったやり方を、うすうす疑いながらやっているうちは、なんの意味があるのかわからず、自分にとっては、まったく意味がないように思われても、
「とりあえずやってみる」ことに、意味があると、自分で意味を見出すのであれば、それはきっと、意味のあることになるでしょう。
日常の何気ない出来事を些細なことと追いやらずに
自分はどんなふうに、その一つひとつに意味づけしているのか?
そういった意味づけの積み重ねが、これまでの人生の意味、これからの生きる意味につながるのではないか。
自分は、どうありたいのか。
どんな自分として生きていくのか。
自分の外側にはない答えを探し続けるのではなく、
自分の内側に問い続けることで、
「人生に意味などない。
人生があなたに意味を問いかけている」
ことの意味が、ようやく理解できてくるのかもしれません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?