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妄想百人一首(24)

『今日を限りの』


 「死ぬほど幸せ」
 彼女はそう言ったんだ。だから僕は悪くない。

 レイとの出会いは介護の職業訓練校だった。
 いつも通り遅刻ギリギリで教室に着くと、いつも通り前列の席しか空いてなくて、やむなく座った席の隣にレイは居た。
 レイは垂れ目で鼻は潰れ気味でファンデーションがやたら濃くて、でもちょっと可愛くて、くすんだ黒髪を無造作に後ろで束ねていて体型のせいか猫背のせいか丸っこくて、でもおっぱいは大きくて、でも話したことはなかったから暫くは何とも思ってなかったはずだ。
 レイも遅刻ギリギリのことが多くて、その日はレイの方が後から来て、隣になるのは何回目かだった。席に着いてから長らく鞄をガサゴソしていたのが気になって目を遣ったら目が合って
「あの……」
レイは目を逸らして、ちょっと迷ってから、また目が合って
「書くもの貸してもらえませんか」
って言った。
 貸さない理由もないから貸して、帰り際には貸したことを忘れてて、そのまま帰ろうとしたら
「ゲンイチロウさん」
呼び止められた。名前を呼ばれたことが久しぶりで、何年振りとかで、すごく素早く振り向いた。本当にすごく素早かった。もちろんペンを返すためだったんだけど、なんか勢いで「佐藤さんの下の名前は?」って聞いたら
「レイです」
って、ニッコリした。

 訓練校の卒業まであと一週間だった。
 レイと二人でスーパーで適当な買い物をして、二人で住むには狭いアパートに帰った。
 ペンを貸したあの日からいろいろと結構変わった。教室に着く時間がだいたい五分ぐらい早くなって、毎日前の方の同じ席に座るようになって、その隣に毎日レイが座った。それから教室に着く時間がさらに五分ぐらい早くなって、毎日同じ席に座った。
 一ヶ月位前の金曜日、レイはバスに乗らず僕とスーパーで買い物をしてうちに来た。次の金曜もその次の金曜ももそうした。その日も金曜だったから、狭いキッチンを二人でさらに狭くしながら、米を炊いたり味噌汁を作ったりした。
 買ってきた唐揚げをチンして晩ご飯は完成で、二人で小さいテーブルを囲んでいただきますをして、レイは味噌汁を飲んで
「はあぁ、幸せぇ、死ぬほど幸せ」
大げさなって思ったし大げさなんだけど、悪い未来を想像できないことを幸せというなら、間違いなく幸せだった。
 その夜はいつも通り寝て、四時位に目が覚めて、これはいつも通りじゃなかった。周りは暗くて、隣のレイは寝息を立てていて、本当に朝の四時であることを確認したときには目が冴えていた。何故だか静けさに堪えられなくなって、とりあえずパンツだけ履いて、水道水を汲んで飲んだ。暗くて静かで動けなくて、コップを物凄く強く握っていて、指の関節が痛かったけど、少しでも力を緩めたらコップを落としてしまいそうで、そおっとそおっとコップをシンクに置いてゆっくり手を離して、大きく息をついた。汗を拭おうとしたら、シャツを着ていなくて袖がなかった。
 夢の光景が蘇った。必死に逃げていて、耳元でレイが「死ぬほど幸せ」と囁き続ける夢だった。夢を思い出した途端、体重をかけていた柵がふっと消えるような感覚に襲われた。転ばないように転ばないように全力で集中して慎重に慎重に布団まで戻って、崩れるように膝をついた。
 レイは相変わらず寝息を立てている。
 レイへ右手を伸ばす。
 レイは安らかな寝顔をしている。
 レイの首に指を這わせる。
 レイは少し肩を動かす。
 レイの首が脈を打つ。
 レイの首に左手も這わせる。
 レイの首が脈を打つ。
 落とさないようにしっかり握る。
 レイの首が脈を打つ。
 落とさないようにしっかり握る。
 レイの首が脈を打つ。
 強く握る。
 レイの首は脈を打つ。
 強く握る。
 落とさないように。
 強く握る。
 強く握る。
 落とさないように。
 落とさないように。
 落とさないように。

 「死ぬほど幸せ」
 彼女がそう言ったんだ。だから僕は悪くない。



今回の一首

忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな

この歌について

 関白の藤原道隆が儀同三司母のもとへ通い始めた頃、つまり新婚ほやほやの頃に儀同三司が詠んだ歌で、
「いつまでも忘れないよ、とあなたは仰いましたが、それが遠い将来まで変わらないでしょうから、いっそ今日で最後の命であって欲しいものです」
という意味。
 儀同三司は、夫の死去や息子の失脚により不遇な晩年を過ごしたらしい。

あとがき

 ネタ帳に「死因:幸せ」って書いてあって面白そうだと思ったら、全く面白くなかった。

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