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妄想百人一首(29)

『隙間 (後)』


 電柱とブロック塀の隙間を通ると異次元に行ける。
 国語の授業で、こんな書き出しの感想文を書いた日のことです。
 珍しく部活が休みになって、まだ空が明るい時間に下校していました。いつも一緒に帰る友達とは部活が違うので一人でした。小学校への通学路と中学校へのとは途中まで同じ道なのですが、ちょうどその分岐にあたる角を曲がったときでした。
 あの日と同じ隙間がありました。
 陽の当たり方も風の暖かさもアスファルトの匂いも静けさも何もかもあの日と同じに感じました。今思えば、私の身長はブロック塀を越えかけるところまで伸びていましたが。
 唾を飲んで、唇を舐めて、もう一度唾を飲みました。リュックを背負い直して、隙間へゆっくりと歩み寄りました。隙間から見える景色はやはり何の変哲もありませんでした。
 ですが、何かに引かれているような気がしたのです。限りなく細く、それでいて決して切れない何かが身体中にあって、それが優しく強く私を引いたのです。
 引かれるがままにリュックを下ろし、目を瞑りました。電柱に触れながら、左足をゆっくり前に出しました。ブレザーの右肩が擦れるのを感じながら右足を引きました。
 異次元に来た感じはありませんでした。
 そりゃそっか、と思いました。みずみずしい心は消え去り、急に恥ずかしくなって目を開きました。
 二十メートルほど前にある電柱の隙間に少年が立っていました。
 その少年の風貌に息を呑みました。透き通るような少年でした。遠くから見ても一目ではっとするような少年でした。
 少年は微笑んで言いました。
「ようこそ」
決して大きくはない声が、辺りに柔らかく響きました。鳥肌が全身を駆け巡りました。
「あっ、あぬっ、、、」
酷いかすれ声でした。頭はもう真っ白でした。
「望みは?」
柔らかい声です。
「飛びたいっ」
考える間もなく叫んでいました。少年は微笑みました。私はそれでやっと自分が突拍子もないことを言っていることがわかって、顔がみるみる赤くなりました。
 少年がすーっと、まるで浮かんでいるかのように近づいて来ました。私は耳まで赤くなって思わず下を向いたその時です。
 私の両脚は地面から離れていました。悲鳴を上げました。
「力を抜いて」
少年が隣に立ってました。私はパニックになって何も言えません。力を抜くなんてもってのほかです。
 少年の手が私の背中に優しくふれました。途端にパニックは収まって力が抜けてゆくのがわかりました。
 周りを見る余裕が生まれると、自分が電線や二階建ての屋根の高さにいることがわかりました。少年は私の隣でやっぱり微笑んでいて、口角筋が痛いくらい吊上がりました。
「飛ぼうか」
「ど、どうやって?」
「手を広げる」
少年は腕を横に大きく広げました。私も恐る恐る広げました。
「そして思い描く」
そう言うなり少年は空へ空へ昇ってゆきました。片や私の体はどれだけ念じても上昇する気配がありませんでした。見上げると表情がわからないくらいにずっと高くから少年が手を振っていました。あそこまで昇りたい、と念じても駄目、早く追いつきたい、と念じても駄目でした。
「思い描いて」
少年の声です。
 気を取り直して、空を飛ぶ自分を想像しました。電線のある高さは危険ですから、まずは少し上昇するのです。体がゆっくり持ち上がって、景色はどんどん下がってゆくのです。どんどん地面が離れていって、自分の家の屋根が見えてきたと思ったら小さくなってゆくのです。
「さすが」
「ひゃっ」
少年の声が耳元で聞こえて、我ながら情けない声が出てると同時に背中がぞわぞわしました。
 下を見ると地面は遙か遠くにあって、家々の屋根や学校、駅やスーパーの見慣れない姿が広がっています。
 想像していたものは想像ではなかったのです。
「どうだい?」
「えっ、すごい」
なんとも残念な感想しか言えませんでした。
「河原まで飛ぼうか」
近くにある河川敷の広い川を指して少年は言いました。私が頷くと少年は颯爽と飛んで行きました。
 今度は街が後ろに流れてゆく景色を想像しました。夢中になって飛んでいました。
「行き過ぎだよ」
少年を追い越してしまい、慌てて戻りました。
「降りる時は慎重にね」
そう言われたのに、なぜでしょう。私は自由落下を想像してしまったのです。声を上げることもできないまま河原が物凄い勢いで近づいてきます。
 ぶつかる。目を瞑ったとき、腕を掴まれて全身がグッと引っ張られました。目を開けると地面に激突する寸前でした。安堵する間もなく、腕を引っ張っていた手がほどけて、一メートル程の高さから思いっ切り落ちました。幸い頭は無事でしたが、河原の石に背中をぶつけて涙ぐんでしまいました。
「大丈夫かい」
こんな時も少年の声は優しい声でした。
「ダイジョウブ」
あまり大丈夫じゃない声でした。
 しかし、河原に大の字で寝転ぶのはいつ以来でしょう。もしかしたら人生初かもしれない。ついさっきまで人生初飛行をしていたのに、そんなことを考えていました。
 体をゆっくり起こすと、夕焼けでした。
 あまり夕焼けについて語りたくはありませんが、なんだか懐かしい色で、とても不安になりました。三年生のときの友達の話を思い出しました。「異次元からは帰れないんだよ」今になって嫌な汗がでてきて心臓の音が聞こえます。
 目の前に少年の背中がありました。呼ぼうとしましたが名前をまだ知りませんでした。肩を叩こうとして手を伸ばすと、とても緊張しました。ふれていいのか分からなくて固まってしまった時、少年が振り向きました。思わず手を引っ込めました。少年はいつもの微笑みで頷きました。言わなくても伝わっていました。
「指を置いて」
少年が夕日に指を置いて言いました。
「君も」
震えるのを抑えながら手を伸ばします。何か言いたいのに声が出ません。私の伸ばした手首を少年が優しく握りました。少しだけ落ち着きました。
「帰らなきゃ」
こんなことが言いたいのではありません。それでも少年は頷いて、もう一度夕日に指を置きました。私もゆっくりと手を伸ばして、夕日に指を置きました。指先に温かさが伝わって、何とか声を絞り出しました。
「また会える?」
「もちろん」
 待って。
 本当に言いたかったことは言えませんでした。聞きたかったことは聞けませんでした。
 二人で夕日を押し込みました。夕焼けは音を立てずに吸い込まれてゆきました。



今回の一首

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

この歌について

 河原左大臣が詠んだ歌で、
「あなた以外の誰かのために、陸奥のしのぶもじずりの模様のように心を乱す私ではないのだが」
という意味。
 平安時代に流行した「忍ぶ恋」の歌の中でも代表的な一首で、色んなところで引用されているらしい。

あとがき

 異次元の少子化対策。

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