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ただの日記

・問題は、日記、について、”ただの”と付けてしまうところである。

・これまで、どれほど 対象 を考えてきたのか、わかるだろうか。

・たとえば、なんで、「・」を打って、文章を書いているのか、とかいうこと(これは挨拶程度のLevel1のことではあるけれど)

・そうしなきゃ、誰も読まないではないか(長々と書いてあるものが、もう、自分はあまり読めなくなっているので、自分へのいたわりでもある=自分=あなたのこと)

・上記の()内にあるように、自分という言葉には、わたしとあなた、が含まれている。このことを境界性の破れというように認知していたが、そんなに簡単なはなしではないようだ

・実は、境界性は破れない。つまり、自他を、メタ認知する視点を、苛烈な修行や訓練で芽生えさせた、ということになる(精神病とは異なる)

・要は、脱社会的(精神病的)なのではなく、究極に社会的なのである。究極に社会的になるほどに普遍平等性に賭けを打たなければ、社会(自分)が滅ぶことには気がつくものである(宗教ではない。長期視点で、生死を考えたときに、大方、こうなる。偉人階層の人々を参照すれば、皆、かわらないことに気がつく)

・ちなみに、この文章の没入的な書き方は、現象学的還元の応用である

・何を書いているかといえば、メタ的には、「とくに書くことはない」ということである。伝えたいことがなにか、といえば「とくに伝えたいことはない」ということである

・だが、人間は、なにかをしていなければ、生きていることにならない(というように、自分は、考えて、そのように決定しているから、まずは、行為形態としての「書く」を実行するのである)。
※まあ、再帰的には、なにもしていなくても、なにもしていないをしている、ことになるのが、生きていることだと思う(生きていれば、どうこう、というより、すでに、どうこう、しているから生きているわけだろう。どうこう、とは、呼吸とか、だ)

・メッセージ以前に「書く」ということは、倒錯ではなく、芸術を鍛錬してきた結果、やはり、そうなるのである。たとえば、「何を描こうか」と考え、「描く」を実行しているようでは、すぐに頭打ちになる。描く気すらなくなっていく

・そのことを応用して、「書く」ことを優先して、伝えたいメッセージや内容が0でも「書く」をする、ということである。これができるようになるまで、10年以上はかかっていると思う

・こういった、たとえば、固有名詞的には、自動書記、と呼ばれるものは、神秘界隈では岡本天明、芸術分野ではシュールレアリストたちが、行ったことでもある

・神秘界隈では、もっと、神秘的な雰囲気や味付けと、本人の忘我的な志向性が求められる。シュールレアリズム的には詐欺っぽさを隠蔽する自然さの志向性が求められる

・いずれにせよ、わたしは、若干、哲学寄りの著述家であるので、現象学的還元という先ほど提出した言葉に寄っている(機械的な雰囲気が大切なのである)

・さて、この、今、まさに、このわたし側の瞬間においては、死の谷を迎えたところだ。何のことかといえば、書く手が止まってしまったうえに、思考においても、停止が訪れた

・重要なのは、「さて」という言葉である。何もその先に内容が思い浮かばなくても、「さて」と書けば、子音的文脈性(エクリチュール的)から、母音的文脈性(パロール的)に意識が変遷する。おそらく、これが文章における転調のテクニックに思う

・日記というものは、確かに、その日に起こったことについて、出来事についてを書くものである。しかしながら、この、わたし、においては、意識の流れ、というものが、出来事単位になっていることが、伺いうる

・ここで、このようなことを書けば、「あまりに自閉的ではないか」、という偏見を恐れて、次は、外聞のコントロール欲において、手が止まりそうになったというわけである

・だが、それでは、毛頭、創作は進まないだろう。と、書いた瞬間に、わたしは、日記に「今日は創作をしました」と、今、まさにメタ的に、書いていることに気がついたのである

・そうである。これが芸術家である

・より言えば、「今日は日記を書きました」という一言をここまで膨らませているともいえる

・そうである。芸術家とは、出来事を、体験するのではなく、創り出すのである

・芸術とは出来事であり、芸術家の仕事とは出来事を創り出すことなのである

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