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【リーディングアート】あたらしい存在 法廷外で訴え出る者


■あたらしい存在 法廷外で訴え出る者

・秘密裏に、などという、隠し事のようなものではなく、人間の構造のなかに、人間の歴史から一度、逸れた、存在の歴史があり、それは、非人間"たち"の歴史であり、孤独ならぬ、孤立の歴史である


灯火の手に

・暴力は、人間を、孤立的存在に、書き換えてしまう。スケープゴート、アウシュビッツから生還したものは、どれほど人々に囲まれようと、自らの体験したことを、語り難く、また、語り得たとしても、人々がその質感や感覚を理解すること、つまり、より、言って、共感することは、困難を極める(刑務所の人々の正当化されてしまった孤立。孤立と罪は関係がない)

・暴力とは、即ち、社会的なもの、以外を全く意味し得ない。生物の捕食関係とは異なる。全く以てして社会的なもの、以外を意味し得ない


埒外的生首の恩寵

・暴力を被ったゆえの孤立。社会外の者が、社会外の、そう、"こころ"、"を"、共感する、ということは、言語外言語(知らない外国語)を情報として理解する、というような、語義矛盾を伴うのである

・こころ、"に"、共感する、ことは不可能なのである。こころ、"を"、共感する、以外には不可能なのである。例えば、こころ、という言葉は、平気で、mind、などと訳されるが、情報としては正しいが、ニュアンスは、一気に喪失される。そういった類のことである(体験しないとわからないこと、を体験していないものがどのように共感しうるのかということ)


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・さて、非人間たちの歴史、こそ、まさに、唯一と言っていいほど、本質において、歴史において、進展してきた原歴史なのである

・非人間たち、とは、孤立した者たちである。そして、暴力を受けた者は、その孤立者たちは、決して、表面上はどうであれ、完全に、ふたたび、自らが生まれた瞬間の同期性に戻るなんてことは、ない、と言えるほどに、少なくとも、現時点においては、それほどの乖離を、ないものとして、しかし、表現し、生きる、という他に方法を持たないのである(伝達不可能性が本質的表現を生む)

・さて、しかしながら、シモーヌ・ヴェイユ、他、多数、遡れば、ナザレのイエスまで、西暦には凄まじい数の非人間が、原歴史を進めてきた(そこには、サンカ、クマソ、エミシというように民族単位のものも含まれる)

・何を書いていることになるのか。悪との対峙の歴史である(原歴史)

・トマス・アクィナスは悪とは、善の欠如と考えた。わたしは、愛の不足と考える。

・悪は局在せず、誰にも宿っている。ある人とある人、が互いに互いを闘っているとき、互いに議論外の悪を見つけて、そこを議論の的にしようとする

・結果、トポス(場)は、バラバラになり、すべてが論外的になり、断片になってしまう(たとえば、ジョルジュ・ルオーの絵画を写実として見ようとすることは悪である。カンディンスキーに人物画を求めるのも、これもまた悪である)

・こういったことが、濃度を自在にしながら、ソフトに、広がっている(柔らかい窒息感。つまり、文化エントロピーというもの)

・わたしは、われわれは、ひとつのネゲントロピーである


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