空のグラスを満たしてから人にあげなさい
日本という国に生きる人は、グラスがカラカラの人が多いとつくづく思う。
なにかで目にした機会もあるかもしれないが、まず自分のグラスを十分に満たしたあとで、溢れた分だけ人にあげることが本来のしあわせな生き方だ、というようなたとえ話である。
感覚的にもああわかる、たしかにそうだよなと以前からぼんやり思っていたのだが、ちゃんと名前があるらしくてシャンパンタワーの法則といったりする。
日本では、こどもの頃から人に親切にしなさい、とか、人に迷惑をかけないようにしなさい、と教わる機会は多くても、まずはじめに自分を満たしなさい、つまり自分のグラスを満たすことを先
にしなさい、と教わることはほとんどないような気がする。
もともとの民族的な傾向なのか、教育のせいなのか、なにかと自分よりも他人を優先したり、ほうっておくと、ことわたしたちはすぐに自己犠牲的になりやすい傾向にあるのだ。
たとえ自分が少しも満たされていなくてグラスがカラカラなのに、ズタボロのボロぞうきんのような状態で、無理やり誰かのグラスを満たしに行こうとする人がとんでもなく多い。
満身創痍で毎日をやっとこさ生きていて、本来人のことなんてかまっていられる状態ではないのに、それでも自分以外の誰かのために奔走しまくって毎日を生きることが普通になっている。
たとえが悪すぎるというか言葉がひどすぎるというか、あえて言葉を選ばずにボロぞうきんなどという強い言葉を使っているのには理由がある。
わたしは日本人はもっと、他人のことはさておいて自分のことだけ考える時間を大切にした方が良いとめちゃくちゃ思う。
自分がボロぞうきん状態なのに本当の意味で誰かを満たすことは無理だからだ。
それはどうやっても、自分自身がカラカラなので満たして欲しい(認めて欲しい)という見返りありきの承認欲求になってしまい、本当の意味で相手に与えることはできていないからである。
人のためにどうこうだとか、誰かに嫌われないためとか、誰かに認められたり気に入られようとして何かをするとか、そしてそれを愛や自己実現や社会貢献だと思い込んでいる人をみていると、なんだか理由もなく胸が痛くなるのだ。
あなた自分のグラス、カラカラじゃん。
人が本心から楽しくて好きでそれをやっているのか、自己犠牲もしくは承認欲求のためにやっているのかは、意外とみればわかる。
いちばんわかるとしたらその人の在り方であり、その人がどれだけ幸せそうかによって一目瞭然なのである。
どんよりした暗い顔をしながら一見良いことをしている、誰かのためになることをしているボロぞうきん行動をしている人たちがとても多い。
そんなことするひまがあるなら好きなカフェに行って豆からひいた高いコーヒーを飲むとか、おいしいものを食べるとか、ソファに一日転がって映画を見るとか、なんでもいいけど自分を喜ばせることをいちばん最初にしてほしい。そしてあなたがうきうきのご機嫌状態になってから、あなたのまわりの誰かをしあわせにしてあげに行ったら、きっと相手もしあわせになれるじゃん、と思うのである。
ボロぞうきん状態は本人もしんどいけどまわりも実はかなりしんどい。
たいがいのボロぞうきんたちは、不機嫌な顔をしていて、愚痴を常に撒いていて、やりたくもないことをしているからである。仕事や家庭などで、イヤイヤ誰かのために何かをしている時間以外は、自分の機嫌も取れずに不満や愚痴を垂れ流しているおかげで、正直周りからしてみればプラマイマイナス状態になっていることに本人だけが気づいていない。
本人だけが「こんなに誰かのためにわたしはがんばっているのに!」と思っていて、どれだけ自分が周りにとって害悪な存在になっているか気づかないのだ。
ヒドイ言い方がつづいて申し訳ないのでそろそろおわりにしようと思うが、わたしは世の自分をないがしろにして誰かのためにがんばりつづける人たちに向けていつも思っている。
なによりもまずあなたが満たされていて、しあわせで、ご機嫌でいることが周りの人たちへの愛情になるのだから、あなたのそのカラカラのグラスを満たしてから誰かにあげてください、と。
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