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豆より団子の鬼退治

「もも太郎はなんで、おに退治に、豆をもっていかなかったんだろうねぇ?」と、弟が聞く。
「そんなものじゃ退治できないからだよ」と、兄が答える。

我が家の息子たちは、なぜか鬼を信じる。
インターネット検索、YouTubeで最新情報を拾い、UMAなんて作り物というくせに、鬼の存在だけは絶対だ。

「おにから電話」というスマホアプリがある。
友人から聞いて知った。多くの子育て家庭で活躍しているらしい。鬼から電話がかかってくる設定は面白いけれど、ビデオ通話のようにイラストの鬼が出るのは子どもだまし感がある。
今どきの子どもたちがこんなもので、と半信半疑で友人のスマホをのぞきこむ私を、もうすぐ4年生と1年生になる兄弟は壁のかげからじっと見ていた。完全に信じている。

息子たちは、とにかく臆病だ。
夜、アパートに3人で帰宅すると、鍵を開ける当番は争うくせに、真っ暗な家に第一歩を踏みこむ役は、たがいに譲り合う。寝る前は、寝室の電気を消しただけで怒る。もちろん夜中のトイレは、必ず起こされて、つき添わされる。
そのくせ、鬼や悪魔が出てくる流行りのアニメを、ふたりでテーブルの下に隠れて、顔を覆う手指の隙間から見る。

そんな彼らにとって、恐怖のイベントが「節分」だ。
最近の節分はかなり凝っていて、お面をかぶった園長先生が逃げまわるような安っぽい演出ではない。
どの教員が演じているのか想像もつかないハイクオリティな鬼が、子どもたちを全力で追い回す。
豆なんかでは、とても太刀打ちできない。

そもそも由来をたどると、節分の設定には無理があるのだ。
節分は、古くは「追儺(ついな)」という儀式で、鬼を弓矢で退治した。平安の頃に始まった豆まきの習慣は、あくまでも災害や病気を鬼になぞらえて、邪気を払うものだ。
現代は、この2つの儀式が混ざって、リアルな鬼に豆のみで立ち向かう「圧倒的に人間不利」の図式になっている。

さらに最近は、なぜか獅子舞の要素まで加わって、鬼は豆にたじろがずに襲いかかり、子どもを何人か担ぎあげたりもするらしい。
最後は、それでも豆をまき続ける子供たちの勇気に屈して、鬼が部屋を出ていくストーリーらしいが、勝ち目のない闘いにひるむ子どもたちの気持ちもわかる。

実際、過去、びびり兄弟はふたりとも、節分の登園を拒否したことがあった。

兄は、イベントの最中に姿を消した。先生たちが探すと、縦長の園児用ロッカー棚にすっぽりと収まっていたという。
弟は、恐怖のあまり園庭の鉄柵を超えて冬場は立ち入り禁止のプールに入り込んでしまった。前代未聞の事態に、園は安全策のために、鉄柵を増設することになった。
お友だちの間で、その無駄に頑丈な柵は「息子の名前」で呼ばれている。

つい先日、近所のスーパーへ買い物に向かうと、棚に豆と、きびだんごがあった。さっとカゴに入れる兄弟。
豆はともかく、きびだんごはどうするの、と聞くと
「食べて鬼に備えるんだよ」
桃太郎という主役不在にして、食いしん坊で怖がりのふたりは、何をどう備えるのか。
いやしかし、腹が減っては戦はできぬ。
節分は、そもそも無病息災の祈願。私たちは3人とも滅多に病気にかからない、元気だけが取り柄の家族だ。
よく食べて、元気があれば、鬼にも勝てる。

もしゃもしゃと食事をたいらげ、明日、保育園で最後の節分を迎える次男は言った。
「あしたは ちょっとおなかがいたくなりそうなので やすむかもしれません」
きびだんごが彼に与えたのは、力ではなく、知恵だった。

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