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初秋の折から

先日、岡山の友人から桃が届いた。

特に知らせもなくやってきた箱を開けると、ほどよく熟れた桃がゴロゴロと並んでいた。なかなか手の届かない高級品である。
息子たちも、わっと覗き込んだ。

クール便で届いた桃たちは、キンと冷えていた。
「しばらく室温におくと美味しく召し上がれます」との案内は横にのけ、まずはひとつ味わってみようということになった。

祖母から学んだ桃の切り方は、少し独特だ。
綺麗にくし型に切り分けられた桃は見栄えがするけれど、それよりも手早くて、切り手に秘密の楽しみがあるのだ。

祖母は10人兄弟の真ん中で、すぐ下の弟である叔祖父と一緒に、戦後、田舎から東京へ出てきた。
祖母は、全盲であった祖父に嫁ぎ、身の回りの世話から家業の手伝いまでこなしていた。
叔祖父は、その近所で青果店を営み、季節ごと、市場から仕入れた旬の野菜や果物の、中でも上等なやつを、祖母の家にお裾分けしてくれた。

幼少期の私は、多くの時間を祖母の家で過ごした。
実家は自転車で20分程の距離。初孫にして唯一の女の子であった私を、いつも車で迎えに来てくれた。
当時の祖母は、60歳手前だったはずだ。
手には深いしわが刻まれ、指先の皮は厚く、まるで職人のような手で、なんでもちゃちゃとこなす人だった。

小さな私は、「美味しい桃があるよ」と呼ばれて、人形遊びの手を止め、かけていく。
白いキッチンに、天板はステンレス。ガラスの器は、まだ空っぽだ。
台所のへりにつかまって、祖母の横で切り方をじっと見ていた。

器用で手際よいその包丁さばきは、いつだって見事だった。
よく熟れてふわふわの白桃を、崩すことなくスルリと剥く。見ているだけで気持ちが良い。
ここからが少し変わっていて、表面から少しずつ削ぎ落としていく。
それが一般的ではないと知ったのは、もうずいぶん大人になってからの話で、私にとって桃の切り方の基本はこれだ。
「球」から切り落とす最初の一片の断面は、まん丸い。
そこを足場にして、次の断片からは、一口サイズで自在に削ぎ落としていく。

種は勘でよける。
種を傷つけないように、余裕をもって包丁を入れるので、贅沢に種まわりの実が残る。
祖母は、にまりと笑って「これ本当は、切った人の特権なのよ」と、それを私の手にのせた。
小さな私は、種ごとかぶりつく。
「一番美味しいところなんだから、みんなに秘密だよ」と、祖母ももうひとつの種を口に入れた。
皿に盛りつけられた上品な白桃と、手づかみで口まわりを汚して種にかぶりつく自分たちとを見比べて、二人で笑う。
種まわりの実は、甘酸っぱく、まさに旬らしい味がする。
秘密の味は、皿の桃よりもずっと美味しく感じた。

今は私が、桃をむく人だ。
包丁を構え、祖母の仕草を思い出す。

できるだけ薄く、スルリと皮をむく。
最初のまん丸い1つを削ぎ落とすと、背後に息子たちのハイエナのような視線を感じる。
そこからは手早く、不揃いに、なんとなく平等に切り分ける。

同じ歪な形でも、祖母の切り分けた桃が美味しそうに見えたのはなぜだろう。
私が祖母の歳になる頃には、追いつくだろうか。永遠に届かないのだろうか。
料理の師の背中はまだ大きい。

旬を味わって、季節を感じる悠長な時間は、ここ数年ほとんどなかった。
子どもたちの食事の準備は、好き嫌いと栄養を考えることが優先で、季節の移り変わりにさほど影響を受けない献立が続く。
旬のフルーツは、値も張る。気軽に食卓には並ばない。

夏の主役はスイカだ。深い緑と黒の皮、鮮やかな赤い実はいかにも夏らしい。そして、秋といえば梨とブドウ。淡い色合いの桃は、私にとって夏と秋の旬のバトンをつなぐ「夏の終わりのはじまり」の果実だ。

けれどもこの世に、もし平和というものがあるならば、季節のものだけしかない食膳の上にあるのではないかと、このごろしきりに思うのである。

 山本 夏彦

ガラスの器には、こんもりと桃がのった。

「甘さの中にある独特の酸味とえぐみが、桃の美味しさをより際立てるね」と、美食リポーターのようなことを言いながら、長男が食べる。
「おーいしー!」と、次男が満面の笑みを浮かべる。
母さんは残りもののこれでいいのよ、と種にかぶりつく。

家族3人、もぐもぐと、しばし沈黙する。

今年はなんとも贅沢に、我が家に秋が訪れた。


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