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リレーで「自分」を抜き去ったあの日

「運動神経抜群の人」
私は周囲にそう思われている。

アスリートとして活動して、引退後もトレーナー・インストラクターになり、スポーツ業界には長く携わった。今も、筋トレは趣味のひとつだ。

シングルマザーは、毎日が体力勝負。
滅多に風邪をひかない肉体は、私の武器だ。

しかし実は、子ども時代は全く運動ができなかった。

いわゆる「運動音痴」だったのだ。

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体格は標準だった。
運動会、ぽっちゃりと体格のよい子供たちがかけっこ競技で遅れをとる中、さらにその後ろを走っていたのが、私だった。
ただ走り方を知らなかったのだ。やる気がないのかと、何度も怒られた。

すべてワンテンポ遅かった。 徒競走なら、合図が鳴って全児童がスタートしたと左右を確認してから走り出す。応援席にいる親や親戚をやきもきさせた。

走れないことで、日常生活にも支障があった。

遠くに車が見えたから、走って道路を渡ろうとして、はねられたこともあった。徐行でよそ見運転している車のボンネットに、スローモーションで乗り上げた。 警察署で怒られている運転手に申し訳なくなり、「足が遅くてごめんなさい」と謝った。

運動をただ人並みにこなすために、並々ならぬ努力が必要だった。
一方、勉学ではそこそこの成績をとれていたので、体育ができなくてもコンプレックスがあったわけではなかった。

しかし、問題はあった。
小学生の人間関係は、シンプルだ。
運動が出来る子は、クラスの中で強い立場になる。
そして、運動が出来ない子は、イジメられた。
私もその一人だった。

● ● ●

転機となったのは、中学校で入った部活動だ。

帰宅部という選択肢はなかった。
地域で一番の問題校だった我が母校では、部活動という檻に全生徒が収容されていた。生徒を野放しにすると地域の治安が悪化するからだ。

吹奏楽部は先輩にクラリネットで殴られると聞いて、 絵筆の方が痛くないだろうと美術部を選んだ。
だが、目立たずに3年間やり過ごす計画は、夏休みを過ぎて崩壊した。

「お願い、陸上部に入って」

小学校カーストで「運動貴族」だった女の子から、突然誘われた。
人数が足りず、間もなく同好会になってしまうのだという。
断りきることもできずに渋っていると、名前だけ貸してくれればいいという。
要は下位カーストの断りそうもない私を選んだのだ。

友人たちが、盗んだバイクで非行の道を走り始めていた頃、私は校庭のトラックを走り始めた。

入ってみると、部員わずか5名。つくづく地味だった。
校庭の隅っこで、5人で腿上げする。距離を変えて走ったり、階段をひたすら上り下りしたり。

地味といえば「雷管」だ。
練習が終わると、雷管と呼ばれるスターターピストルの火薬をせっせと小さく切り分けて、乾燥材の入った缶に補充した。
実は、その作業は好きだった。

ともかく、問題は「走る」ことだ。
ただ名義貸しで入った部活に何のモチベーションも上げられないまま、日々重い気持ちでアディダスの偽物のような垢ぬけない指定ジャージに着替えた。

そんな冷めた女子を突き動かしたのは「恋」だった。
カッコイイ先輩がいた。見ているだけで幸せだった。心に一筋の光が差した。

動機は不純であれ何であれ、今まで走り方さえ知らずに育った人間が、毎日前向きに部活に通い始めた。

良い顧問にも恵まれた。
走ることが得意な人の集まりであるはずの陸上部に突如現れたド素人に、ゼロからの走り方を教えてくれた。
竹刀を振り回す先生も多かった時代に、決して生徒を叱らず、褒めて伸ばす珍しいタイプの先生だった。

校庭で、他校の生徒といざこざが起きたことがあった。
危うく巻き込まれそうな陸上部員のところに顧問がやってきた。
慌てる様子もなく手を胸の前に合わせ、おもむろに片足を組み、言った。 「ダルシム」。
あまりにも意味がわからず、その場はおさまり、 私は、面白そうなのでこの人について行こうと決心した。

記録は徐々に伸び始めた。
練習にもついていけるようになり、ストップウォッチの数字は更新を続けた。そのうち部活に誘った女の子よりも足が速くなり、彼女の方が部活に来なくなってしまった。
しかしその頃には数名の新入生も加入し、同好会化の心配はなくなっていた。

記録が伸びれば、どんどん楽しく感じ始めた。
毎朝、線路沿いのランニングコースを走るようになった。
放課後は、野球部の下級生たちがグラウンド整備を終える時間よりも遅くまで練習を続け、「いつもグラウンドにいる人」として有名になっていた。

その「グラウンドにいる人」の存在が、図らずも陸上部の広告になり、どんどんと加入希望者が増えていった。

記録は井の中の蛙レベルに過ぎない。
競技会では「もともと走ることを得意とする人」の足元にも及ばなかった。
それでも、生徒の半分以上が喫煙を嗜み、素行が悪過ぎて男女共トイレに扉のない学校では、すっかりトップクラスのランナーになってしまった。

かつてマラソン大会の最下位を憐みの拍手で飾った子が、いつしか後輩たちから羨望の眼差しを向けられるようになってしまったのだ。

中学校最後の運動会、リレーのアンカーで登場すると、ギャラリーが黄色い声で沸き、驚いた。

偶然にも、最後のリレーでアンカー勝負となったのは、運動ができたことを理由に私をイジメていた女の子だった。彼女のチームは少しリードしていた。
最後のバトンを受け取り、その手に力を込めると同時に駆け出す。
以前は背中を見ることさえできなかった彼女との距離が、ぐんぐんと縮まる。
アウトコースから追い越す。もう他に前を走る人はいない。
あとはただ無心のまま、トップでゴールラインを走り抜けた。

その時、はじめて気づいた。

ひっそりと学生生活を送るつもりが、陸上部への入部によって、計画は変わってしまった。
状況の変化にネガティブな思いしかなかったのに、待っていた未来は違った。
一番変わったのは、自分自身だ。
そして、自分が変われば、周りの人が変わった。

2年前、人数が足りずに同好会に格下げされる寸前だった陸上部は、その年、部員数200名を超える校内最大の部活となっていた。
そして、それをとりまとめるのは、女子部長となった私だった。

走り抜き去って乗り越えたのは、「私自身」だったのだ。

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ここから、自分を変えるきっかけとなったスポーツの世界に、長い間どっぷりと浸かった。
「スポーツ」が、自分のアイデンティティのひとつになるなんて、あの日警察署で自分をはねた運転手に頭を下げる少女に言ったところで全く信じないだろう。

アスリートとして挫折を味わうこともあった。
けれど、それらの経験から得た最大の財産が、今の生活を支えている。
それが「体力」だ。

夜、息子たちが眠ったあと、束の間の平穏が訪れる。
私にとって、貴重な読書や物書きの時間であり、ゲームやお酒を楽しむ時間だ。
正直、疲れて一緒に寝てしまう日もある。
でも、それでは仕事や子育て、家事だけに全ての時間を拘束されてしまう。 生活と自分の時間を支えるのは「体力」なのだ。

息子たちは、あと数年で「かけっこ」で母を追い抜くだろう。
それでいい。
君たちが、やり残しのない人生を送るためには、今、めいっぱい遊んで走り回って体力をつけるのだ。

そしていつか、母だけでなく、「昔の自分」を抜き去ったと気づく日が来るかもしれない。
走れ、息子たちよ。

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最後までお読み頂き、ありがとうございます。
月一更新、6回目になりました。
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