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祖父と竹トンボと私

「きれいなお嬢さんがいらっしゃった。今日はどちらから?」

3年前のある日、私は房総半島の奥地で突然、ナンパされた。
モテ自慢ではない。
手を握って私を口説いていたのは祖父だった。
認知症を患い、私が自分の孫なのも分からなくなった、最晩年の祖父だった。

(間に合わなかった)

そう思った。祖父の中にもう、私はいない。蘇ることもない。
でも、そうではなかった。
この時、祖父から孫として、最後の贈り物をもらった。

大好きだった、ちょっと変わった祖父のことを書いておこうと思う。

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(関東大震災資料写真より)

祖父は大正12年9月1日、関東大震災の日に生まれた。
太平洋戦争では通信兵として戦地へ行き、家にはいくつもの勲章が飾ってあった。
当時では稀な180cmを超える身長と、がっしりとした体格。
戦後は、大手製薬会社の営業マンとして好成績を収め、母の幼少期はかなり贅沢な暮らしだったそうだが、借金の保証人を引き受けた友人が失踪し、莫大な借金のカタとして、豪邸も失った。
それでも決して友人を悪く言わない祖父を、母は「相当のお人好しで懲りない人」といったが、私のイメージは「ロックンロールな人」だった。

車の運転は、常にフルアクセル・フルブレーキだった。
旅行先で、近道だといって入った山道で、沼地に突っ込んで制御不能となった。くるくると景色が回る中で「あぁ、これで死ぬのか」と、ギュッと目を閉じた。
運転も車も大好きで、すぐに事故を起こしては何台も買い替え「またオシャカにしちまったよ」と笑った。

そして、あるとき突然、農業に目覚め、縁もゆかりもない千葉県館山の南端へ引っ越してしまった。
学生時代に一度、家族で遊びに行った。自慢の広大な畑に見入っていると、祖父は不意にズボンをおろし、畑に向かって「肥料」をまき散らし始めた。「お前もやれ!」と言われた弟は苦笑いし、母は白目をむいていた。

祖母の三回忌の法要の席で、70歳を越えていた祖父は唐突に20歳近く年下の私の母の年齢に近い人との再婚を発表した。
度肝を抜かれた親族たちを前に、再婚を考えていると何度も祖母が夢に出てくる、「仏心のねえ仏だな」と言い放った。

若い頃は、かなりのプレイボーイだったらしい。
キセルを構えて流し目を決める祖父のブロマイドが、葬式の後になって出てきた。
再婚の決断も早かったよね、と話すと、母が「再々婚だよ」と言った。
母は継子だった。
つまり、あの祖父と私の間に血の繋がりはなかったことをその時に知ったのだ。

しかし、継子であった母を、実子以上に大事に育ててくれた愛のある人だった、と母は言い、同じように、その孫もとても愛された。
「子煩悩」という言葉は祖父のためにある、そんな人だった。

まだ小さな私と弟をあちこち連れまわし、母は心配で気が気ではなかったそうだが、私も祖父と遊ぶのが大好きだった。

忘れられない思い出がある。
手先が器用だった祖父が作ってくれた竹トンボだ。

私は大喜びで、近所の公園に行った。
もっと遠くへ飛ばして驚かそう、そんなつもりで竹トンボの羽をじっと見つめ思いきり手を回すと、その羽が私の眼球を切りつけた。

祖父は真っ青になって私を抱えて家に戻り、怒りに震える母と共に病院へ向かった。
結局、大事には至らなかったが、肩を落として小さくなる祖父がいた。
後にも先にも、見たことがない姿だった。

+++

少し前に認知症を発症し、このところ祖父の具合が良くないと聞いた。
小さな子ども連れで片道3時間以上かけて千葉の南端まで行くのは、決して近くはない道のりだが、どうしても会いに行かなくてはいけない。
25年ほど前、祖母が急逝したとき、偶然にも直前に会えるチャンスがあったのに部活動を理由に逃してしまったことを、今も後悔していたからだ。

やっとの思いで着いた現地には「祖父の形をした知らない人」がいた。
昔よりふたまわりほども小さく見える身体の脇を抱えられて立つ姿に言葉を失った。

祖父は私を見つけると、じっと顔を見つめ、一歩、また一歩、とこちらに近寄ってきた。
窪んだ目の奥に、少しだけ光が差したように見えた。
もしかしたら、愛孫を見て記憶が蘇る奇跡が起きたのではないか。
そんな、かすかな希望にすがるような思いで(思い出してくれたの…?)と顔を覗き込むと、祖父は私の手を力強く握り、言った。

「きれいなお嬢さんがいらっしゃった。今日はどちらから?」

(間に合わなかった)

奇跡なんて起きなかった。

もう、そこにいる祖父の中に私はいない。
私と祖父は、もう二度と再会することはないのだ、と思った。

私の手を握って離さない「祖父の形をした人」と、隣合わせに座り、その手をそっと本人の太ももに置いた。

祖父は、「海岸に流れ着いた異邦人の女」の話を始めた。
不思議だった。祖父の「お嫁さん」は、まったくのでたらめだというが、目の前で起きているかのような話が続く。それは、祖父が話さなかった戦争体験の中の一部だったのかもしれない。
船で国から逃げてきたという女は粗末な格好で食料もなく、「何かをしてやりたかったが、僕にはどうすることもできなかったんだよ」と、宙に何かを見ながら、祖父は言った。
仮に作り話だとしても、どこかに祖父を見つけられないだろうかと、言葉を追いかけた。

ふと、祖父は私の息子たちを見た。

「なんてかわいいんだろう。僕はね、子どもがとても好きなんです。この子たちを、いつか預からせてくれませんか?」

とんでもないことを言いだしたが、祖父らしいと思った。

「私の息子たちだよ、おじいちゃん。わかる?おじいちゃんの、ひ孫なんだよ。」
祖父は少しキョトンとして、わからないことを笑って誤魔化した。
本当に、私が冗談を言ったのだと思ったのかもしれない。

少し考えたあと、「あのね」と、口を開いた。
「僕には、この子たちと同じ歳くらいの孫がいるんです」
祖父は力強く話始めた。

「もう暫く、会っていない。少し大きくなったのかもしれない。でも、とてもかわいい孫なんです。僕は、竹トンボをつくってやったんです。」

そこに、私がいた。
その時の祖父の目は、「小さな私」を見ていた。

「あのとき、僕の不注意で、目を怪我させてしまったのです。あれは、とても悪いことをした。今もそう思っているのです。」

言葉がでない。
取り繕う笑顔が間に合わない。
小さく吐いた息が震える。
視界が滲む。

祖父は、驚いた顔をしている。
私は、これ以上の涙がこぼれないように、ゆっくり口をひらいた。

「私が、その子だよ。私が、あなたの孫なの。」

祖父は、また冗談を、と笑うだけだった。
もう言葉は届かない。でも、言葉にして伝えたかった。

「ありがとう。おじいちゃん。目なんてなんともなかったの。心配しないで。大好きだよ。」

+++

葬儀に参列することは叶わず、次に祖父に会ったときには、もう小さな壺の中に全てが収まっていた。

人は、いつ死ぬのだろう。
心臓の音が止まった時、生物としての命は終わる。
でも、誰かの記憶に残る限りは、その人は生きている。

あの日、祖父の中に生き続ける、小さな小さな私を知った。
そして、空までも届きそうな肩車をしてくれた大きな祖父は今も、私の中に生きている。

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最後までお読み頂き、ありがとうございます。
今回で4作目の『月刊なおぽん』となりました。
前作は自己紹介となっております。
お時間のある時に、ぜひ併せてご覧ください。


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