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連続なおぽんテレビ小説 「10年後、あなたは母になる」 一部 第3話

10年前、私は夜の西新宿で働きはじめた。
当時、同居していた「稼がない」芸人を、昼の仕事の収入だけでは養えなくなったからだ。

日中は会社勤めで働けない。アルバイト情報誌のスナックやクラブの求人が目にとまった。お客様の隣で酒を飲むだけで、時給3000円ももらえる。そんな世界があるのか。

渋谷、六本木、新宿周辺は、未経験者にとってあまりにもハードルが高い。まずは様子を探ろう、と自宅から遠くない荻窪のスナックに応募した。
表通りから入った小さな商店街のアーケードは日中もじめりと薄暗い。その中ほどに、店はあった。

カランカランと扉の鈴が鳴る。
カウンターには、真っ赤な口紅の「ママ」が、ちょこんと座っていた。
綺麗に立ち揃ったススキ野原のような奇抜な前髪に、横に張り出した肩パット、目を覆うようなつけまつげ。全てが彼女のプライドの高さ、虚勢を示していた。
銀座で貯めたお金で、ついに自分の夢を叶えた場所なのよ、と、こちらが挨拶するよりも先にママは語り始めた。
特に私の話を聞くわけでもなく、「毎晩来てくれるなら」と、30代未経験もすんなり雇われた。

真っ白な内装の店に、カウンターとボックス席。奥に安っぽいカラオケセットがどんと置かれ、毎晩、ママが注文した生花が届けられた。
客は旧知の知り合い達で、味など気にせず飲んで大騒ぎする人たちだったが、ママはお酒のラインナップにとにかくこだわった。
店には客数に関わらず、毎晩ずらりと女の子が並んだ。
時間制限なし、1万円ぽっきり、飲み放題、女の子つけ放題。素人でも、どうやって採算を合わせるつもりなのか謎だった。
店は、夢と現実の狭間で渾沌としていた。

店に用意された貸ドレスはあまりにも「布きれ」だった。
わたしより5歳ほど若い「先輩」に教わって、新宿地下街のサブナードに向かうと、いくつかドレスを売る店があった。色とりどりの煌めきに、目眩がした。
こんなものを着て、酒を飲むのか。それが「仕事」なのか。なぜ、そんなことになったのか。

ふと我に返ったが、ドレスがなければ店には出られない。ピンキリのドレスから、荻窪のあの店らしい、今の私らしい、今のお財布事情に合うものを探した。見つかったドレスの値札は2990円。
結局、「布きれ」みたいなドレスを買った。

常連客から、「レイナ」という名前をもらった。
レイナは気の利かない女だった。自分のコップに酒を注ぐ以外、人のお酒の作り方もよく知らなかった。煙草を吸ったこともないので、ライターをうまくつけることさえできなかった。
できることといえば、長い接客業で習得した愛想よい笑顔と、顔色を変えずに大量にお酒を飲めることだった。
そんなレイナは常連客の一部に、なぜかウケた。スポーツトレーナーより向いているのかもしれない、と一瞬勘違いした。

明日が見えない。これからどうなるのか。本当にやりたいことは。
そんな不安が少しでも過ると、全力で振り払った。脳が考えることを拒否した。
楽しいことこそが幸せなのだ。この日々を守らなければいけない。

しかし、ほどなくして店は潰れた。
私の生活より先に、ママの夢の店は破綻した。

再度アルバイト情報誌を手に取り、今度は西新宿のお店へと向かった。
レイナは、そこでマオになった。

西新宿の店は、荻窪のスナックとは違い、それなりに高級感のあるクラブだった。コンセプトもルールも整っていて、スポーティーなショートヘアだったマオは「ウィッグをつけなさい」と言われた。

日中働いていたセレブリティ向けのスポーツジム施設の会社では、Wワークを禁止していた。
本職では全く化粧をしていなかった私は、仕事が終わると、駅のトイレに駆け込んで、真っ赤な口紅をつけた。ポーチの中には、チープな化粧品が詰め込まれていた。
店のロッカールームで、「布きれ」を纏い、安っぽいウィッグをつける。薄暗い店内ではそれらしく見えた。

マオはレイナ時代の経験を活かして軌道にのり、同伴だのアフターだのと客を取れるようになった。
給料日にバサッと現金で手渡される封筒を持ち帰ると、同居していた芸人は「おつかれさま!」と機嫌よく迎え、「明日は贅沢しちゃおうか!」と提案した。
君が言うセリフかい? という言葉は飲み込み、私はまた、笑った。

これでいい。
生活破綻、借金の危機はなんとか乗り越えた。
これでいいんだ。

アフターで遅くまで飲んだある日。
眠気でぼんやりしながら本職のスポーツジムに出社した。めずらしく私宛てに封書が届いていた。
「先日の健康診断の結果ですよ」
毎年、運動し過ぎによる徐脈で引っ掛かることくらいしかない健康体の私は、診断を受けたことさえ忘れていた。

今年は肝臓なんかやられてなきゃいいけど。
自分の心で呟いたことを鼻で笑いながら、封書を開けた。
そこには、真っ赤な紙が1枚入っていた。

「子宮頚がんの疑いがあります。至急、精密検査を受けてください」

時が、止まった。

(つづく)

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