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連続なおぽんテレビ小説 「10年後、あなたは母になる」 一部 第2話

10年前、わたしは売れない芸人と暮らしていた。

彼が所属していたのは大手芸能事務所だった。
ある月の給与明細には「舞台出演900円」とあり、源泉徴収を引かれた支給額は810円だった。
彼は月に1、2回程、所属事務所の運営する舞台に多くの出演者のひとりとして出演し、それ以外はほとんど家にいた。

西武新宿線の井荻駅から、商店街を5分も歩けば当時の家があった。築浅の1LDKで家賃10数万。3、4人は寝泊りできるであろう広々とした間取りだった。家賃を折半しよう、という約束は一度も守られることはなかった。

わたしの荷物は仕事用のジャージと資料くらいだったが、部屋にはネタを書きとめたノートやらコント道具やらが散乱し、足の踏み場もなかった。大きなクローゼットには、ファンからもらったから捨てられないという大きな人形がゴロゴロと入っていた。

彼が新しいバイトを決めたと話していたある日、家に帰るといつも通り、床に寝転がってテレビを見ていた。
「俺って根っからの芸人だから働けないんだよね」と、彼は誇らしげに笑った。
私は、つられて笑った。

芸歴11年目。
当時のルールで、もうM-1グランプリに出られない、とよく文句を言っていた。予選会やオーディションに落ちる度に、「相方」が家にやってきて「解散しよう!俺は芸人を辞める!」と始まった。
最初は慰めもした。けれど、毎回同じことが起きるので、「一緒に悩んであげたところで何の意味もないな」と気づいた。
殴り合いのような口論が始まり、最後は、泣きながら和解する。何の進展もない、同じ場所への着陸。人生がコントだった。

彼らは所属事務所の養成校を出て芸人になる、よくあるコースを進んでいた。芸人たちは、年齢や売れているかどうかに関わらず、所属年数だけで上下関係が決まる。どんなに売れていても後輩は後輩、という縦社会だ。

家にはほぼ毎晩のように「後輩たち」が、ご飯を食べにきた。中にはテレビでよく見かける子もいた。そんな彼らに、昔キッチンで調理のバイトをしたことがあるという彼は、器用に料理を振る舞った。
材料費は全てわたしの財布から出ている。酒も、帰りのタクシー代も。気づけば、ベッドに横になっている子もいた。わたしには寝る場所もない。
誰も彼も「俺って根っからの芸人なんで」を誇らしげに生きる人たちの集まりだった。

それでも、良かった。

わたしは、そのとき既に過去一度、結婚で失敗していた。
最初の結婚で、子どもが欲しかったが、叶わなかった。若かった当時の配偶者は、子どもなんて要らないと言った。結婚に人生最大の幸せを夢見ていたわたしは、現実を知った。だから、30歳を越えた「微妙なお年頃」ではあったものの、もう結婚に夢や願望はなかった。

彼らといれば、毎日が楽しかった。ただそれだけで良かった。先のことを考えるなんて馬鹿馬鹿しいと思った。自由気ままな生活が、楽しくて幸せな人生に見えたのだ。

とはいえ、財布事情はどんどんと厳しくなっていた。

あまりお金を使わないわたしにはかなりの貯金があったが、引っ越しと生活費補充で、いよいよ「借金」の2文字が頭をよぎった。
芸人は「借金」をどうとも思わない。それを返すことに義務を感じる様子もない。お金には厳しく育てられたわたしは、大変危険だと悟った。

仕方なく、わたしは夜の西新宿で働きはじめた。

(つづく)

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