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かぞくのじかん、匂いのバトン

小学生のころ、給食室の前を通ると、あの匂いが漂ってきた。
なんとなく甘く、青臭く、正体はわからないのに懐かしい。

何の香りだろう。ずっと考えていた。

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昔から、匂いに敏感だ。

だいぶ前、テレビ番組で、あるタレントが「誰かが引いたトランプを嗅覚で当てる」というマジック紛いのかくし芸を見せていた。
私は、幼い頃まったく同じことができた。

鋭敏な嗅覚が、生活の中で最も役に立つ場面。それが料理だ。

料理は独学だ。

子どもの頃、食卓にはいつもレトルト品やスーパーのお惣菜が並んだ。
出来合い品ばかりだといって、家族が母を責めることは決してなかった。
美的感覚に優れた母は、盛りつけのセンスが良く、食卓はいつも華やかだった。
料理の腕がいまいちだと母は潔く諦め、彼女なりに幸せな食卓を作ってくれていた。

私は料理の盛りつけは苦手だ。
その代わりの武器が、天性の嗅覚だ。食べたものの味を高精度で再現できるのだ。
「美味しいもの」に出会うと、これは再現したい!という思いに駆られる。

料理をはじめた頃はとにかく足し算で、食材や調味料をなんでも加えてみたくなった。そこから次第に、シンプルな技法で美味しさを引き出す面白さと深さを知った。
近所のスーパーで揃う食材に、おなじみの調味料。
なんでもない素材の美味しさに驚き、再現してやろうと勝負心が沸き上がる。

たとえば、定食にちょこんと添えられたキャベツのお新香。
塩加減ひとつが勝負のあのシンプルなやつがたまらない。
あとひと味、なにを足そうか。
定番の昆布以外に「白だしや塩麹を足すと美味しい」というアイディアを知った。絶妙な足し算だ。

お新香づくりに旬の春キャベツを刻むとき、時々、あの「給食室から漂う匂い」がする気がした。

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再現料理といえば、「縁日の焼きそば」からは、意外なことを学んだ。

紅しょうがが赤々と主張していて、もやし、キャベツ、豚肉、などがオマケ程度に入ったほぼ麺とソースのみの代物。
なぜか、とても美味しい。

まず出店用の鉄板の火力をまねて、家庭用コンロに不釣り合いな大きなフライパンと極端に少ない具材で作ってみた。
なにか違う。

粉のソースの安っぽさはなんとなく近い。
先に野菜だけ炒めて水分をできるだけ飛ばし、具材に粉ソースで味をつけて、後から麺、仕上げの追いソース、というのはなかなか良い工夫だった。
でも、まだ違う。

隠し味作戦も試みた。
粉ソースを使わずに、市販の液体ソース。いくつか混ぜるのも試した。
ケチャップを少量混ぜ込んだ時は、息子たちに好評だった。
「これケチャップ焼きそばだね」と言われたので、ちっとも「隠し味」にはならなかった。

「お祭りらしい匂い」を添加してみてはどうか、と、鍋肌から醤油を入れて、焦がし醤油で雰囲気を演出してみた。キッチンには縁日の香りが漂った。
しかし、味は大いに不評だった。焦げ味が勝ったようだ。

そんな調子でかれこれ20年くらい、焼きそばを作る度に試行錯誤していた。
そしてつい先日、意外なきっかけで答えが見つかった。

ある日、早い時間に息子たちの夕食に焼きそばを用意した。ところが、それをうっかり忘れて、また別の夕食を用意して食べてしまったのだ。
朝になって、蓋をしたフライパンの中に、まるまる残された焼きそばを発見した。

もったいないことをしたな、まだ食べられるかな…と、つまむと、それは「縁日の焼きそば」の味がした。

水分が良い具合に抜けていた。
よく思い出せば、どの屋台も、たいてい多めに用意したものを脇によせて放置しておくものだ。

「手抜き」
それが答えだったのだ。

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最近、「手抜き」の別の大切さも知った。
作り手でなく、家族にとっての大切さだ。

我が家の子どもたちは、食事の仕度を始めると「早く、早く!」「まだー??」と急かす。
どれだけ空腹なのかと慌てて用意しても、がっついて食べるわけではない。兄弟で先を競って「今日あった出来事のお話し」が始まる。
彼らは、食事という「家族の時間」を待っているのだ。

私もそうだった。
母は、食事の準備が整って、家族が席に揃っても、いつまでも台所の片づけをしていた。
「そんなの後にして、食べようよ」と声を掛けると、「先に始めちゃっていいよ!」と、返ってくる。
いつもそれが、寂しかった。

子どもたちは、手の込んだ料理よりも、母が席につくのを待っている。
そのために、上手な「手抜き」が必要なのだ。
食事は食事以上のもの、幸せを共有する時間なのだから。

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今では「手抜き」の効用を知った私だが、手抜きしなかったからこそ、知った幸せもある。
あの給食室の匂い、なぜか私を幸せな気持ちにする香りの謎だ。

あれは長男が生後半年くらいの離乳期にかかる頃。
夜泣きに、癇癪、ワンオペ育児。心身共にへとへとになっていた時だった。

第一子の子育ては、無意味なこだわりが出るものだ。
市販のベビーフードに頼るのは甘えだ、愛情不足だ、と思い込んでいた。

ある日、離乳食を作ろうと、ニンジンをすりおろした。
柔らかく煮てから潰すのが楽なのに、「煮ると栄養素が落ちる」だとかそんな話を鵜吞みにして、手間をかけて作っていた。
水分が多いダイコンやキュウリ比べ、ニンジンは堅く、地味につらい作業だった。

そのとき。
あの匂いがした。

小学生のときから探していたあの匂い。給食室の前や、長男を妊娠しているとき近所の保育園の横でかいだあの匂いは、すりおろしたニンジンから出る独特の匂いだったのだ。
そして、確かにそれは、赤ん坊の時の記憶につながっていた。

甘くて、青臭くて、懐かしい匂いの向こうには、若き日の母がいた。
料理は苦手なのに、初めて生まれた私のために、日々、ニンジンをすりおろしてくれたのだ。

赤ん坊の私は、毎日ちゃんと食べたのか、時には吐き出したのか、その味をどう思ったのか、そんなことは憶えていない。
けれど、その匂いはいつも、全身を幸せで包んでくれた。

嗅覚に刻まれていたのは、不器用な母の手抜きなしの料理、私への深い愛情の記憶だった。

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長男は最近、気まぐれに料理を手伝ってくれる。
指ごと切り落としそうでハラハラするけれど、案外、大事故にはならない。
子供なりにうまくやるものだ。
そして、それが上手くできても、ひと味足りなくても、そこにはいつも家族の笑顔がある。

「君がつくったの、美味しいね」と、笑う。
「母さんが笑っていると嬉しいから、また作るね」と、息子が笑う。

私たち家族の、新しい「幸せの匂い」が、そこにある。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました。
「月刊なおぽん」から「季刊なおぽん」へ…
と言いながら、なんとか7月号に間に合いました。
今後もどうぞ宜しくお願いします。

これまでの「月刊なおぽん」、お時間のある時に、併せてぜひご覧くださいませ。


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