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それでも外見は大切だ

現在はファッションにしても、美容にしても、選んだり探したりする時間と費やすお金は、20年前のそれにくらべればずいぶんと縮小されているわたしだけれども、「人間、大切なのは中身。外見じゃないよ」などとは、まったく思っていない。

だって、外見は大切だ。
なぜなら外見には、かならず中身が現れると思うから。
だから、大人になって外見を意識することは、すなわち中身や暮らしぶりや生き方にも向上心を持つことと、イコールだと思っている。
ちゃんと生きたいと思ったら、外見なんて関係ない、なんて、とても思えない。

人とのコミュニケーションにおいても、外見でまず他人から好感を持ってもらわないことには、その奥にある人間性を知ってもらうこともできない。
だから「人間、大切なのは中身、外見じゃない」なんて台詞は、おそらく人生のどのステージにおいても出番はない、くらいのつもりでいる。

Voicyのパーソナリティ仲間である虫育児戦略的会社員ワーママかおさんの放送で、「美容への投資は、自分の外見コンプレックスを取り除くため」と語っていたのが、興味深かった。

わたしの現在のおしゃれや美容に対する意識も、かおさんと、わりと近いものがある。

わたしの場合、自分がもってうまれた容姿に対して、「もっとここがこうだったら」というところはあっても、それがいやでたまらない、というほど強い感情ではなくて、なんかもっとこう、あきらめて、受け入れている。

だから、かおさんのようにコンプレックスに悩んでいるわけではないのだけれど、「外見を気にするあまり自分に自信がなくなったりネガティブな感情に引っ張られたりしない程度に身なりをととのえておく」という点においては、同じだ。

おしゃれやメイクは、自分に自信を与えてくれるものであるのはたしかだけれど、いまのわたしは、それを求めてはいない。
そんなに自信満々でいられなくても、普段どおりリラックスしてふるまえれば、それでいい。
だから服に期待するのは、等身大の自分以上に見せてくれなくてもいいから、せめて自信をなくす原因であってほしくない、ということ。

たとえば、昔はコムデギャルソンの服を着ることでファッションの仕事をする自分に自信を与えようとしていたけれど、それが何シーズンも前のコレクションであることに自信がもてなくなるくらいなら、むしろ今季買ったきれいなユニクロを着るほうが、いまのわたしは堂々としていられる。

いくら有名なニットブランドのカシミヤでも、毛玉が気になるくらいなら、元をとったといえるほど着ていなくたって、これはわたしにとってはハズレだったという教訓とともに、あっさり手放そうと思う。
「着古した味」という自己満足に浸る勇気は、いまのわたしにはないのだ。

わたしが現在、外見は大切だと信じて疑わないその「外見」とは、どのブランドのコートやニットを着ているかではなくて、「いい感じの人」として他人の目にうつる姿かどうか、だ。

特別目を引く装いでなくても、人として好印象か。
清潔感があって、健康的に見えて、時代遅れな印象がないか。

ファッションはもともと好きだから、今の空気感はそれなりに身にまとっていたいけれど、別に最新でなくてもいい。
肌触りやシルエットが、着ていてストレスのないものであること、手入れがむずかしくないことはとても大事で、あとは、自信がもてなくなる要因が見つからなければ、それでいい。

言葉にすると、なんだかおしゃれに対して消極的みたいだけれど、そういうわけでもないのだ。
「素敵な大人」という像は、服や化粧品をたよりさえすれば手に入れられるものではないし、逆に、お金をかけずともいい雰囲気の人にはなれる、と知ったのである。

そうした新たな視点を手に入れてからのおしゃれは、より深い世界で、むしろおもしろい。
そんなことをよく考えているわたしは、たぶんいまも、おしゃれに対して消極的どころか、むしろ意欲的ではないかと思っている。

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