見出し画像

いいと思うことをやればいい

郊外での暮らしをブログや著書に綴るようになって、そろそろ10年。
読者の方や、雑誌などで取材してくださる相手の言動から、自分が「ていねいな暮らしをしている人」として認識されていることについてはなんとなく感じていたし、そのままの言葉でずばり、言われることもある。

自分としては正直、それについては、とくにうれしいわけでも、イヤでもない。
少なくともここ10年は「ていねいな暮らしをしたい」と思ったことがないからだ。

自分が興味をひかれることをやり、やって気持ちよかったことを続け、合わないと感じたことからは距離を置く。ただそれだけをくりかえしている暮らしが、他人からは「ていねい」に見えるならば、それは相手がもった印象としての形容詞だし、その評価によって、わたしが暮らしていくうえでの価値基準は何も変わらない。

わたしはただ、自分がいいと思うことをやって生きていきたい、と思っている。

「少なくともここ10年はていねいな暮らしをしたいと意識していない」と書いたけど、その前はどうだったかというと、その意識をまったく持ったことがないとは言わない。

わたしが30歳前後のころ、それはもう20年近く前だが、雑誌『クウネル』が牽引したいわゆる「暮らし系雑誌」のブームがあり、当時独身一人暮らしだったわたしは、思いきりその洗礼を受けた。

料理もインテリアも、そのなかで受けた影響は大きいし、当時はファッション編集者としてトレンドを追いかける仕事をしていたこともあって、対極にある「普通の暮らしをとことん楽しむ」のが逆に新鮮で、そちらの方が自分に合っているとも思えた。

その後、仕事の方向性を見直し、現在はトレンドを追うファッションの仕事ではなく、人や暮らしや生き方を見つめて文章を書くことを仕事にしていることからも、そのときわたしが知った「暮らしは楽しい」という実感は、一過性のものではなく、自分の軸を持つ上で大切なものとなった。

ところが近年は「ていねいな暮らし」が、必ずしもお手本とすべきものではなく、ちょっとした揶揄の対象にさえなっていると知ったのは少し前のことだ。
「ていねいな暮らし」の後に「(笑)」をつけるような空気というか。それを知ったとき、とても不思議な気持ちがした。

いったいどういう心理が、ていねいな暮らしを鼻で笑うような意識を生むのだろう。
いや、ていねいな暮らしであろうと、他のどんな暮らしであろうと、他人の暮らしぶりを嘲笑うようなこと、誰にもする資格なんてない。

理屈っぽいわたしは、自分を含めて誰がどれくらいていねいに暮らしているかなんてことよりも、「なぜそれを過剰に持ち上げたり、かと思えば一転して小馬鹿にするような風潮が生まれるのか」ということの方が気になる。

ここから先は

595字
生きかた、はたらきかた、暮らし、モノ選びetc.のエッセイが12本入っています。

2022年12月発売のエッセイ集『すこやかなほうへ』(集英社)に収録されたエッセイの下書きをまとめました(有料記事はのぞく)。書籍用に改稿…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?