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もう私は、“わたし”を小さく見積もらない!

謙遜や自己卑下は、はたして正義か

日本人の美徳と言われる「謙遜」の文化。意識してか、無意識か、例に漏れず私もよくやってしまっている。最近の私は、このことについて、何となく引っ掛かりを感じていた。

例えば誰か、自分より凄い人がいたとする。
そうすると、自分の中の自己卑下の気持ちがむくむくと湧いて出てくる。「自分よりも、あの人は凄い」「自分には〇〇が足りてない」「自分はそもそも力不足だ」

“わたし”の潜在能力や出来ることをミニマムに見積もると、やがて「力不足でミニマムなわたし」が出来上がる。思考は現実化する、というのはやはり本当なように思う。

自己卑下は傲慢な在り方である、のかもしれない

日本で生きていくうちに、自然と身についてしまった謙遜や自己卑下の癖。自分の足りない部分を見つけては、そんな自分に落胆し、チクチクと自分を責めて続けてしまう。

しかし、ある時ふと、私の既成概念が粉砕されるような気づきを得た。そのインスピレーションは、お風呂上がり、私がぼーっと髪の毛を乾かしているときに突然やってきた。
「なぜ私は、私という存在を、こんなにもぞんざいに扱っているのだろう」

他の誰とも同じではない、“わたし”という奇跡の存在。過去の奇跡の連続の重なりのお陰で、今私は、痛みや不具合もない健康体である。私の身体も、身につけているものも、住居や食べ物という当たり前のモノでさえも、はたして本当に私の所有物なのだろうか。本当は何1つ、「私のモノ」というものはなく、全て与えられたものなのかもしれない。

その気づきを得てから、私の意識は変化した。“奇跡の存在である私”にいちゃもんをつけて、私はいったい何様のつもりだろう。どうして、与えられた身体や特性に対して「ありがとう」と感謝をしないのだろう。

自己卑下に陥る前に、私の周りには感謝すべきものがたくさん転がっていた。目の前にある、花瓶に生けた可愛らしいお花達や、愛を持って私と関わってくださるご縁のある方々。1つ1つに感謝を向けていたら、いつの間にか“自己卑下”に対する認識が変化した。

美徳であると思っていた、謙遜や自己卑下は、少し視点を変えると、傲慢な在り方とも言えるのかもしれない。

今世、与えてもらったもの全てに感謝して進む

その日を境に、私は「私への見方」や、「生きることへの価値観」さえも少しずつ変化し始めた。自分の存在や、自分の可能性を小さく見積もるような、“私の生”をぞんざいに扱う考え方は、もうやめようと自然に思うようになった。
そして、競争社会の中で勝ち残ることや、私的な欲やエゴ、不安を満たすだけの生き方は、もう段々と終わりにしていこう。今世私が与えられたもの、容姿や能力、なぜかどうしようもなく好きで、続けているもの。その全てに意味があるのならば、その1つ1つに感謝し、出来る限りそれを活かすような、生き方をしてみたいと思うようになった。

自分を小さく見積もることをやめたことで、今まで蓋をされて出てこられなかった潜在的な力が発揮され始めたり、今まで「当たり前」と思っていた、何の変哲もない自分の中に、沢山の可能性を見出すことが増えたように思う。

おわりに

私の日々の気づきを綴ったものを、ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございます!私の気づきが、誰かの何かのお役に立つことがあれば、それはとてつもなく嬉しいことであります😌💓こうしたご縁に、沢山の愛と感謝を込めて。



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