てんてこ・まい

ビビデバビデブーなんて魔法はないともう知っている。ハラスメント/虐待サバイバーが、日々…

てんてこ・まい

ビビデバビデブーなんて魔法はないともう知っている。ハラスメント/虐待サバイバーが、日々思ったことを、雰囲気で解決するために屁理屈を書いています。人生哲学な音声配信やってます(🔎Spotify /Podcastにて「とけない夜に空想を」)

最近の記事

余裕が出ても疲労で頭が回らない

なんだかんだ4月ラスト週の一週間の日記です。サボりながらも日によってばらつきがあっても継続できた自分をまずは褒めましょう。 月曜日 新しいことはどんどん降りかかる、先週は余裕が持てたと思ったけど、タスクを処理したら新規タスク、継続タスクの違いでたくさん降りかかる。空白をもう少し持ちたいというのが目標 ーー 火曜日 しゃしゃり出たかな?と自問自答で自己反省会をするのをやめたい、終業後は趣味に没頭したい。 朝から体調も気分良くなかった。雨天だからなのか、ギリギリに職場

    • 愛想笑いがうまくなる頃に大人になるなんて

      4月の一週間日記三本目、そろそろ異動先でも慣れてくるころだと思いたい。 月曜日 そろそろ疲れが見えてきて、動き方はわかったけど、私は声が大きいということがわかって恥ずかしくなった。これは昔から声が通るタイプだとわかっているので、意識して小さくはしているんだけど、疲れるとコントロールが難しい。疲れた時に白目になるし(これも昔からの特性)、全部症状が出ている。組織にいると標準に合わせなきゃいけないから、その小さな積み重ねが全部ストレスとなっている。 少しだけ余裕が出てきたか

      • 忙しく仕事だけで流れゆく毎日に余裕を持つために

        4月の2週目は、その曜日の気分に私が当てはめた曲と共に日記を書いていきたいと思う。 月曜日と疲労 (♪サイダーのように言葉が湧き上がる/never young beach) 動きを尋ねたら「わからない」、その人しかわからないシステムや動き方を尋ねたら「わからな~い」教える気がないのか、自身のことで手いっぱいなのかはわからないが、あなた一人しか確認が取れない案件については適当に流さないでほしい。子どもじゃないんだからという頭に湧き出る言葉をかき消して、私だったらそんなことを

        • そうやって私たちは上手く生きようとする

          異動をしたから、呼吸ができるように1週間の日記を書こうと思った。 4月1日 今年は月曜日から新年度が始まるということは、5日も勤務をしてようやく休日を迎えることだ。なんだか窮屈な新年度の始まりだなとイヤイヤ期を抱えたまま異動だ。TWGの紅茶をタンブラーに入れて、出勤しただけで偉いと言うご褒美と、少しだけリラックスできるように準備をする。以前の環境では「タンブラーを持って出勤なんておしゃれぶって生意気なこと」と小言を溢す、ザ昭和のお局キャラ記号を持っていたオバさんに当てられた

        余裕が出ても疲労で頭が回らない

          憧れの人はもたないほうがいいのかもしれない

          ここ最近、毒親・虐待育ちによる大人になった後の弊害(アダルトチルドレン)と、その解毒法のようなものを少しづつ言語化できて、自身にも施して適応できるようになってきたから、雑記としてまとめておく。感覚で書いていることが殆どなので、言葉の使い方や文体は気にせずに書く。人間は変わることが当たり前なので、書いている途中でも価値観が変容するかもしれないことを前提として書き落とす。 ①周囲の人間を神格化させるな 親に認めてもらうためを指針として幼少期を過ごしたので、「自分のやりたいこと

          憧れの人はもたないほうがいいのかもしれない

          ゴールデンカムイを教えてくれた元同僚から、再会する創作物のよさに思いを重ねる

          最近は『ゴールデンカムイ』という作品に魅了されている。実写化で映画をなされて観に行った結果、原作を読み直し、アニメを視聴し直し、再熱をしたと言った方が正しい。 沢山供給されるコンテンツの中で、初手で心を鷲掴みにすることから振り落としてきた作品が、多く存在していることを私たちは忘れている。消費物として見做し、娯楽として読み捨てられる。必要な頃になって見返すと、心を連れ去ってしまう。フィクションや作品は、いわゆる娯楽なのだけど、本当に出逢うべき時に出逢い、必要な頃に思い出させて

          ゴールデンカムイを教えてくれた元同僚から、再会する創作物のよさに思いを重ねる

          人間に対してニーズという言葉を使うことについて

          『ニーズ』と言葉を検索をすると、求め・欲求・需要・必要と出てくる。 ニーズがある/なしで語られる時、人材や我々人間に対してもニーズの有無を当てはめられるようになった。必要とされる人材、必要とされる行為、一切無駄がないように動くこと。 人間に対して当てはめる”ニーズ”とは一体なんだろうか、就職活動や仕事をしていると「それって必要なことなんですか」と、言葉が飛び交うことがある。無駄なものは削減し、有効なものを継続をしていく。還元先だけに注力をし、不必要だったと切り捨てられたも

          人間に対してニーズという言葉を使うことについて

          所属できない悲しみを抱えて、死にたがりだったあの頃の私へ

          中学時代の私へ 相変わらず死にたがりは変わっていないけど、田舎の閉塞した空気感が無理で、結局は集団生活ができないタイプの人間だと20代後半にしてようやく気がつくことができました。いじめられて虐待を受けていたから、学校が嫌いで精神疾患を患い行けない結果だったのだと思っていましたが、そもそもの性格で、みんな一緒で均一や頑張ろうや連帯責任のような、気持ち悪い集団凝縮性が嫌いだったのでしょう。いずれかは不適応を起こしていたか、しこりを持ちながら過ごしていたのには変わりないなと思いま

          所属できない悲しみを抱えて、死にたがりだったあの頃の私へ

          東京で匿名になるための待ち合わせ

          東京へ来ると言ったら“消費活動”をしに来ることがほとんどだ。 進学、就職活動、転居、結婚、転職も全て地方田舎で行った私は、10代の頃は“東京”は憧れの土地であり、未知な場所だった。東京へ来るためには、大抵はイベント料金と同等、またはそれ以上の金額が交通費がかかるが、大人になった今では、お金さえ払えば気軽に来れる。高校時代に感じていた場所よりも、ずっと近くに感じる。お金を出せば、何でもできるんだと錯覚をする。10代の頃に東京へ行きたいと願っていた夢も、仕事やコミュニティの繋が

          東京で匿名になるための待ち合わせ

          定額な海で攫ってくれる王子様に夢を見て

          時々、この社会に順応して擬態できているように見えて、波に乗れている、大丈夫だと思い込んでいても、あっという間に呼吸ができなくなる。息苦しくて、乗っている船ごと沈没して溺れてしまいそうになる時は、逃避行をする。呼吸を落ち着かせるように、深いため息か、深い深呼吸をした時が、逃避行の合図。 ある人は、たくさんの人と会うことで癒しを補完するだろう。ある人は、殻に閉じこもって自分と対話することで呼吸の術を見つけるだろう。自己との対話の中では、誰かと会わずとも、本や動画の創作物から他者

          定額な海で攫ってくれる王子様に夢を見て

          認めてもらいたい欲求を「推し活」の代替行為で消化する

          認めてもらいたい欲求を「推し活」の代替行為で消化して、それを推しておけば自己肯定を安定して図ることができるようになった。認めてもらいたいというのは、継続して、安定した、脅かされることのない領域で、自己肯定を図ることができる行為だ。誰かという他者から、負荷を掛け合う状態で埋めてもらう行為は引け目を感じる中で、自己完結ができて、他者に認めてもらわずとも自己肯定を図れる安全な行為は、「推し活」という言葉に集約された行為となって、ポピュラーなモノとなった。 特に二次元を推し対象とし

          認めてもらいたい欲求を「推し活」の代替行為で消化する

          真面目なのに変だねをアイデンティティにしてかわいいね

          小中高生の頃は、ファッションに憧れを持っていて、雑誌の中が煌めいて見えた。大人になったら私も本物を獲得してお洒落になるのだと息巻いて、なけなしのお小遣いをためては、類似している商品を手に取った。数万円する布にはお金が払えないから、似ているものを選択することで気を紛らわしていた。小中学生ながら、少しずつ貯蓄したお金は、レッドレーベルのヴィヴィアンウエストウッドの長財布を購入し、持っているだけでお洒落だと錯覚していた無垢な少女。地方田舎のヤンキーたちはボロボロのルイヴィトンの財布

          真面目なのに変だねをアイデンティティにしてかわいいね

          阿佐ヶ谷姉妹という関係性(という幻想)

          令和時代、女の関係性で「阿佐ヶ谷姉妹」のような関係性を求めるようになった人が増えた。いや、以前より求められてはいたが、家族という基盤が、社会という基盤が、男性の労働にぶらさがることでしか機能できずに作り上げられた構造が多く、難しい現状だった。解放を求めた先には、”性別”に囚われず、自分の自由さを肯定してくれる存在、関係性を持つことができる自由さを獲得したかったのだろう。 コロナが猛威をふるっていたあの頃、YouTubeでは男性シェアハウスの動画が人気になることや、男性同士の

          阿佐ヶ谷姉妹という関係性(という幻想)

          無償の善意

          いつの間にか、金銭が発生することでその仕事を全うしたという感覚になった。その仕事を行なっている最中に、喜びや達成感があるのではなく、数字を目に焼き付けてから、ようやく達成感を獲得できる人間と成り果てた。自己学習も、身を切った書籍購入も、無我夢中で好きだからできていたあの頃は、薄給や残業も楽しんでいた。人間に裏切られたと感じた今となってはどうでもいい。今でも、娯楽ではない仕事関連の書籍を購入をしているが、それは自分が真っ当な人間なんだと証明してくれる代替品であり、自分に真っ当な

          ホットケーキで幸せになれなくてごめんなさい

          頭痛を抱えたまま起き抜けに、昨夜は何をしていたっけと途切れた充電器を横目に、アラームのスヌーズ機能が発動していることに気がついた。やらかしたと思ったが、耳の奥でテレビバラエティ特有の笑い声が秋風と共に流れてきて、ああ、今日は休日かと、のそのそとリビングルームへ足を運ぶと、ダイニングテーブルにていねいに半分に切られた二重のホットケーキが置いてあった。二重を半分ではなく、一枚ずつシェアすればいいのでは、と思ったが、半分にした犯人らしいと思う。どうせ訊ねたところで、二重の分厚さが大

          ホットケーキで幸せになれなくてごめんなさい

          死にたいに寛容じゃない社会

          死にたいと気軽に言えなくなった、死にたいと言えば病的だと決めつけられて「心療内科へ受診したほうが」と斡旋され、名をつけてもらうことで、周囲が囲うことで問題解決を図ろうとする事象に嫌々しさを感じるようになった。 病名がつけられないのなら落ち度と設定させる、過去は過去だなんて簡単に片付けられるもんか、津波のように突発的に過去の苦しさに飲み込まれる瞬間がやってくる。どれだけリカバリースキルも公式も持っていても役になんて立たない。 私たちはどう生きれば良いのだろう、死にたいと落と

          死にたいに寛容じゃない社会