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5/2 ボキャブラリーのなさにほとほと呆れるショロー

おはようございます。
最近、会話中に(なんて、ありきたりのことを言ってるんだろう、ワタシ?
)と感じることが多くなりました。氣がついた途端、オノレのボキャブラリーのなさにうんざりする。そこで口をつぐめばいいものを、状況を打開するべく、さらに無意味な言葉を重ねてしまう。
言葉にした途端、話している内容がどうでもいいものに思えてくる。それは思っていることと言葉が噛み合っておらず、ありあわせの言葉でアウトプットしてしまっているからでしょうか。うーむ。

そもそも、ワタシの場合、確固たる考えのもとに話すことはそんなに多くはない。むしろ話しているうちに(あ、ワタシはこんなことを考えていたのか)と思うことのほうが断然多い。なので、原稿を書こうとするとき、オノレの考えをまとめるためにだれかと話したくなるんですよ、相手はいい迷惑でしょうが(笑)。

一応下調べなぞをしてのセミナー形式のときはちょっと勝手が違う。出典元があるときは大声で断言口調になる(内田樹説)。たしかに、自説は小声であやふやな口調になるもんなぁ、面白いですねぇ。
他人説を引用した後、
「とは言っても、ワタシはこう思うんだよね」
といったりする。
こうしたとき、近しい人の場合は、
「実際はそうだよね~、分かる、分かる」
といった反応が返って来る。この場合、簡単に同意されると嬉しい反面、それ以上に発展しない、これが欠点。おそらく下手に反論して延々議論するということを、日本人は好まないのだと思う。

しかし、積極的に意見交換や議論したほうがいい話題だってある。たまには「あ~でもない、こうでもない」といった場数を踏むことは必要ではないか、なんて思う。
そして、このときオノレのボキャブラリーの貧困さを痛感する。
また使い慣れないカタカナ言葉とか、咀嚼しきれていない小難しい言葉なんかの使用は要注意である(ワタシの場合)。

オノレの考えをうまく言葉にできないもどかしさ、これをたっぷり味わうこと。
他人の説に妥協したり、「ええい、面倒くさい、もういいや」と放ってしまったらそこで終わりだ。コレ、オノレでもよくやりがち。
しかし、徹底的にオノレの無知を思い知ると、学習意欲が湧いてくる(ような氣がする)。

たいていの人は無意識下において、誰かの影響を受けている。だから付き合う相手が重要なのだ。
「ワタシと同じこと言ってる~」と思うとき、それは逆にワタシがその相手から影響をうけたことに氣づかないだけの場合もある。
人間関係はこうした勘違いの連鎖で成り立つ。
そうしたところにシンクロニシティが多く起こるのはもっともな話。

言葉は道具。いい道具を使っているか、百均グッズで間に合わせているかで、だいぶ出来は変わって来るかも。もっとも道具は使いよう、とも言うが。
言葉(道具)の入手先、これがテレビ、書籍、ネット、付き合う人などなどとそれぞれの種類や階層がありますもんね。
なにを選ぶか、選ばないか、ここが運命の分かれ道。

約40年前、レアが唐突にワタシに尋ねたものだ。
「ねぇ、デコ、人間の『業』って何だと思う?」
は?
は?
何言ってんだ、コイツ?
ゴーヒロミしか思いつかなかった「とほほ」なワタシだが、その問いはずっと胸に残っていて、現在毎月レアとZOOMで語り合っている。
先日、たまたまレアの父「大仏空」が残した論文を読んだら、その中に「業」が出てきた。あ、ここに原点があったか!
レアは高校時代、父親と「業」について語っていたのではないか?
当時彼女は「あほなクラスメイトに問いかけたもんだ」と思ったかもしれない。
しかし、あのときレアは確実にワタシに「業」について考える種を蒔いたのだ。それが今につながっている。

こんなことを書いたからといって、レアとワタシが毎回高尚な話をしているかというとまったく違う。ほぼ食べ物の話、農作業や薪割りの話である。
おまけに彼女との話はいつも簡単に結論が出ないで、延々寄り道脇道に入り込んで「あれ、なに話してたんだっけ」で終わる。スッキリしないまま、「またね~」と別れる。
これは継続のサイン、いつも途中で終わることが大事。

ボキャブラリーのなさに身もだえしながら、それでもショローはおしゃべりを続ける。一生発展途上、これでいいのだ(と思う)。

横で聞いているトーマ(17歳)とちぃちぃ(15歳)。

今日もとっちらかった話ですいません。
なにはともあれ今日もご機嫌元氣な1日を。







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